預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

何でも与えたら、大変でしょ?(ヨハネ15:16)

15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。



私が、あなた方を選んだ』と主イエスは言われた。それは、『聖霊によらなければ、イエスを主と告白することは出来ない』と聖書にあるように、「信仰は神によって与えられるものだ」ということだ。ということは、私達人間が、イエスを救い主に仕立て上げた(祭り上げた)のではない、ということである。それは実に、神の主権による。神からの一方的な恵みなのだ。


 その目的は3つ。


 まず、①「実を結ぶ為」。御霊の実(愛・喜び・平安……)である。それが無いと心が破壊されてしまうほどに、全ての人が、それを欲しながら、それでも手に入れることが困難で苦しんでいる、その「愛・喜び・平安」を与える為に、神は私達を信仰へと導いて下さったということだ。


 次に、②「その実が残る為」。聖書が教える通り、神が下さる「愛・喜び・平安」は、いつまでもなくならない。


 そして、驚くべきことに、③「主イエスの名によって祈るなら、何でも与えられる為」だという。
 これは特権である。と言っても「何でも与えられる」ことではない。そんなうまい話はない。「主イエスの名によって」というのが特権なのである


 普通は、他人の名前を勝手には使えない。権威ある人の名前なら尚更だ。それなのに、主の主・王の王、唯一真の神である主イエスの名を使うことがクリスチャンには許されているのだから、この特権を使って祈らない手はない。


 ただ、問題は「何を祈るか」だ。聖書は、『御心に適う祈りは聞かれる』と教えている。わがままをゴリ押しすることが「祈り」なのではないのだ。


 では、主の御心は何か。それは、明らかだ。『神は、全ての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる』(ただし、望んでおられるだけで、必ずしも、その望み通りに全ての人が救われる訳ではない。例えば、神は、アダムとエバが神の戒めに背いて禁断の木の実を食べることを望んだだろうか。いや、逆に、従ってくれることを望んだはずだ。しかし、その神の望みは叶わず、アラムとエバは神に背いた)。


 とにかく、神は、私達が信じるようになる(神に信頼するようになる)ことを望んでおられる。ゆえに、「イエス様を信じたいです」という願いは聞かれる。聖霊なる神が働いて下さって、主イエスを信じる心を与えて下さるのである。


 更に主は、私達が神に信頼して、あらゆる問題に勝利するようになることを望んでおられる。ゆえに、「その信仰を与えて下さい」という願いは、御心に適うのである。もし今、自分の信仰が足りなくて、乗り越えられない問題があるとしたら、それは『願わないから』だとヤコブは言う。私達は祈ろう。「神への信頼を強めて下さい」、「御霊の実を結ばせて下さい」と。特権を用いて。

×

非ログインユーザーとして返信する