預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

ことばってことは?(ヨハネ1:1~13)

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
1:6 神から遣わされたヨハネという人が現われた。
1:7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
1:8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。



 三位一体なる神の第二位格のことを、「ことば」と呼ぶのはなぜか。それは、言葉は心を最も良く現わすものだからである。主が言われたように、『心にあることを口が話す』のだ。つまり、キリストは「父なる神の御心」を完全に現わすお方だから、「ことば」なのである。


 では、父なる神の御心とは何か。それは、『子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つこと』(ヨハネ6:40)だと主は言われた。その「御心」を主は十字架で完全に現わされた。ところが、『民は受け入れなかった』。「ことば」として、父の御心を完全に現わされたキリストを受け入れないということは、すなわち、そもそもの「御心」である永遠の命・救い・天国を拒むということだ。その結果は、残念ながら滅びである。救いを拒むのだから仕方がない。


 しかし、キリストを受け入れた人々には、神の子供とされる特権が与えられた。これがクリスチャンの受けた恵みである。それは『(血筋、民族、国籍)によってではなく』とあるように、たとえユダヤ人であるとしても、その血のゆえに救われるのではないのだ。また、『肉の欲求や人の意欲によってでもなく』とあるように、一生懸命努力して、その熱心さで救われるのでもない。『ただ、神によって生まれる』のだ。


 ゆえに私達は、「神の御心」受け入れることが必要だ。実は、それこそが、「キリストを受け入れる」ことなのである何故なら、キリストは「神の御心」を現わす「ことば」なのだから。そして、その人こそが、「神によって生まれた」人なのだ。


 そのような「神によって生まれた者」は、世に勝つし、罪の中に生きない、とヨハネはその手紙の中で言う。何故なら、罪の中に、ではなく、神の愛と守りの中に生きる者となるからだ。


 勿論、世にあっては患難がある。しかし、信仰によって試練を乗り越える力が与えられ、この世の悩み・苦しみに勝利するのだ。そう、神は、私達が自分の力に頼るのではなく、信仰によって世に勝つことを望んでおられる。その「御心」を受け入れて、神の憐れみと恵みを求めて祈る、それが「神によって生まれた者」なのである。そして、その「神の子」に与えられた特権、それこそ、祈ることなのだから、祈らない手はない。

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