預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

敵意へいき? いや、はいき!(エペソ2:14~16)

2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。



 隔ての壁*エルサレム神殿にあった壁のこと)、それはすなわち敵意*異邦人の庭とユダヤ人の庭を仕切っていた)であり、敵意とは律法異邦人は聖域に入るべからず、という掟)のことであると聖書は言う。


 その隔ての壁をキリストは打ち壊して下さった。それも、ハンマーでではなく、十字架で。それゆえに、キリストは私達の平和であると聖書は言う。つまりキリストの十字架は、あらゆる意味においての敵意(隔ての壁)を打ち壊す力なのだ。例えば、恨み、憎しみ、怒り……人と人を隔て、争いを生み、不幸を招く「壁」が心の中にある。主は、その壁を打ち壊し、心の中に平和を実現させることが出来るのだ。『神の国は、あなた方のただ中にある』という主の言葉は、それを現わしている。死んだあと、天国に行けるというだけでなく、地上で生きている間も、心の中に、神の支配する平和が実現するということなのだ。十字架には、その力がある。


 そして、ただ単に、心の問題を解決するだけでなく、十字架は、神との和解へと私達を導く。神と人間との間にあった「隔ての壁」である「」を葬り去る、それが十字架だ。それによって神との平和を築くことが出来る。もはや死後の裁き、滅び、地獄を恐れる必要はない。それどころか、神の愛と守り、恵み、祝福を受けることが出来る。それこそが、神との正しい関係である。何故なら、神は、初めから、そうする為に人間を作ったのだから


 ですから私達は、神の守りと恵み、祝福を求めて祈るべきである。祈らないなら、それは、神に頼らない(神を必要としない)ということであり、自らを神とすることに等しいそれは、神との正しい関係ではない


 神は人間を愛し、恵もうとしておられる。そんな神を私達は信頼する。これが正しい関係(神との平和)だ。それを崩してしまってはいけない。


 十字架によって「」という「隔ての壁」が打ち壊され、実現された「心の平和」。その平和を保つために、主を崇め、信頼し、いつも主と共に歩む者となろう。そのようにして神との関係を、いつも正しい形に整えておこう。

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