預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

何? 試練が辛い? そりゃそうでしょ(ヤコブ1:2~4)

1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
1:3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
1:4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。



 「忍耐」は、御霊の実の中には含まれていない。


 では、どうすれば、忍耐は生じるのか。それは、試練が来る事によってだと聖書は言う。だから、試練が来たら喜びと思いなさい、と言うのだ。


 ただ、この『思いなさい』という言葉は、エーゴ-マイ(想像しなさい・考えなさい)である。つまり、試練を喜べというのではなく、「試練は嫌だけど、多分これはいつか、喜べる結果に変わるんだろうなあ」と想像しなさい、ということなのだ。何故なら、「忍耐」という、御霊の実にも無いものが生じるからである。大袈裟に言えば、「御霊の人」以上の人になるのだから喜ぶべきだろう。


 ただし、『忍耐が生じる事を(知識として)知っている(ギノスコー)』だけでは不十分である。大切なのは、その忍耐を完全に働かせる事だ。つまり、忍耐を休ませてはいけない、忍耐し続けなさい、という事である。そうすれば、完全なクリスチャンになる、と言う。その人は、ローマ5:3~5にあるように、試練を通して忍耐、最終的には希望を生み出し、その希望は失望に終る事がない、と確信する人だ。どんな希望か。それは、ローマ8:28の通り、神は全ての事を働かせて益に変えて下さる、という希望だ。その事を『私達は知っている』とパウロは言う。これは、ギノスコーではなく、オイダ(体験的に知っている)が使われている。そう、私達は、「神が益と変えて下さる」という事を、知識として知るだけでなく、体験するべきなのだ。そして、それを体験をする為には、試練が必要なのである。たとえば、温泉の有難さを体感する為には、「寒さ」が必要なように。


 勿論、試練は嬉しくはない。主もゲッセマネの園で祈られたし、『試みにあわせないで下さい、と祈りなさい』と教えられた。主は、私達が平安である事を望んでおられる。しかし、当然のように試練は来る。(参照:Ⅰペテロ4:12) が、それを乗り越える力、それが信仰であり、神は全ての事を益に変えて下さる、という希望だ。


 ですから、試練の時は、「これは、きっと益に変わるんだろうなあ」と想像しよう。その希望があればこそ、忍耐が働く。その忍耐を完全に働かせる時、平安な義の実が結ばれるのだ。

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