預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

対立したいのではなく、愛のゆえに(Ⅰテモテ1:1~5)

1:1 私たちの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエスとの命令による、キリスト・イエスの使徒パウロから、
1:2 信仰による真実のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。
1:3 私がマケドニヤに出発するとき、あなたにお願いしたように、あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを説いたり、
1:4 果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。
1:5 この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。



 愛は「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる」と聖書は言う。だから、愛は愛でも、虚栄心、独占欲、貪欲などから出てくる「愛」は、屈折した愛であり、本当の愛とは言えない。


 愛とは何か。キリストの十字架に愛がある、と聖書は言う。


 つまり、罪ある人間が滅びるよりも、悔い改めて救われる(それが、罪人である私達人間にとっての最善となる)為にキリストは身代わりに十字架にかかられた・・・「それが愛だ」と聖書は言うのである。


 そう、愛とは、相手にとっての最善を行なうことなのだ。そのような愛は、きよい心と、正しい良心と、偽りのない信仰から出てくるのであって、それが目標だというのである。


 その目標を達成するために辿ると、まず、偽りのない信仰だが、少なくとも、偽りの信仰から愛が出るとは思えない間違った聖書理解は人を苦しめる。だからパウロは、弟子テモテに『ある人達が違った教えを説いたりしないように』と命じている。それは、「偽りのない信仰から出る愛」を目標としているがゆえであり、決して対立したいわけではないのだ。


 次に、正しい良心。本来「良心」とは、正しい心のことであろうはずだが、間違った価値観に基くならば、そこから出てくる良心も「正しくない」場合がある(例えば、親分への忠誠心から、敵を殺す…とかも、ヤクザにとっての良心なのだろうが、それは必ずしも正しいとは言えない)ということだ。神の前に「正しい」と言える価値観、それは勿論、聖書の教える価値観だ。つまり、正しい良心は、偽りのない信仰から出るということである。


 そして、きよい心。「聖い」とは「混じり気がない」ということである。例えば、心の中に神への信頼と疑いが同時に存在しているような場合、それを「きよくない」と言う。だから、「心を清めよ」という教えは、「神への信頼だけにせよ」「一つの心になれ」ということなのだ。そしてそれも、偽りのない信仰から出る


 そういうわけで、土台は「偽りのない信仰」だ。その為に、違った教えを避けるように、とパウロは言うそれは、あくまでも、愛が目標だからなのだ。この目当てを見失ってはならない。同時に、自分自身が、信じた御言葉を実行する「偽りのない信仰」であり続けることを求めよう。

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