預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

本音が暴かれる(ルカ2:25~35)

2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
2:26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
2:27 彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。
2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
2:33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」




 救い主の誕生、それは『喜びの知らせ』である。天使達も、羊飼いも、東方の博士達も、大いに喜んだ。が、最も喜ぶであろうはずの母マリヤだけは、何か引っかかっていたのか、『すべて心に納めて、思いを巡らしていた(ルカ2:19)。その「何か」をシメオンは明かす。『御覧なさい。この子は……反対を受けるしるしとして定められている』と。すなわち、死ぬ為に生まれて来た、ということだ。


 そのような過酷な宣告を受けた母マリヤ。しかも、彼女はやがて、その息子の死を自分の目で間近に見るのである。実に、母と子という視点で見る時に、この救い主の誕生は、悲しいスト―リーである。シメオンはそれを預言してマリヤに告げた。『剣があなたの心をも刺し貫くでしょう』と。


 問題は、その次だ。シメオンは言う。『それは多くの人の心の思いが現れるためです』と。ここでの『思い』と訳されるギリシャ語は「ディアロギスモス」で、「計算、打算」という意味である。普通は、それらは「建前」の奥に隠されているものだ。それが現わされるということは、本音が暴かれるということである


 一体、救い主の誕生(クリスマス)によって、人々のどんな本音が明らかになるのか。それは、クリスマスを「ただ単に楽しむお祭り」と考えているのか、それとも本気で「救い主に感謝しているのか」その重大な部分が明らかにされる(本音が暴かれる)ということなのだ。


 そこで、私達がクリスマスを祝う、その本音は何かが問われる。


 「クリスマスは伝道の最大のチャンス」と言われる。「この時だけは、堂々とキリストについて語れる」とか・・・。(「この時だけは」ってのはどうか、と思うが
 とにかく、伝道のチャンスであることは良い。しかし、それが最大の動機でいいのか、だ。


 クリスマスはキリストの祭りである。祭りは、例えば、過ぎ越しの祭りがそうであるように、神の恵み(救い)を忘れない為のもの。だから、キリストの祭り(クリスマス)は、救い主は私達の代わりに死ぬ為に生まれた、という、その恵みを忘れないで感謝する為に祝われるものなのだ。それ以外の動機(本音)が、第一とされるべきではない。


 心配、悩み、不満などは、放っておいても勝手に溢れてくる。しかし、感謝は、そうではない。ともすれば忘れてしまうだから、思い出す為に、祭りが必要なのだ主は十字架で死ぬ為に生まれて下さった。私達は、その恵みを思い起こして感謝しよう。クリスマスは、その為の時だ。それが本音である者として、礼拝と感謝を捧げよう。

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