預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

手段は問わない!(ピリピ4:6~7)

4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。



 私達は、願い事だけが祈りではない、ということを知っている。ということは、裏返せば、願い事も祈りだ、ということでもあるのだが。


 しかし、ここで聖書は、祈りと願いによって神に願いごとを知って頂け、と、「祈り」と「願い」を、あえて区別するのである。


 例えば、「賛美の祈り」というものがある。神を崇める為の祈りだ。しかし、神を賛美する方法ならば別に祈りでなくても構わない。音楽を使えば良い。勿論、祈りという手段でも構わないが。
 つまり、この場合、「祈り」は「目的」なのではなく、「賛美」という目的の為の一つの手段だということだ。


 ダニエル書9:20~23で、ダニエルは「願いの祈り」をしていた。その祈りの中で「罪の告白」もしている。これも、「目的」の為に手段・方法として「祈り」を用いているということだ。


 ここまで、祈りは、手段だということである。



 逆に、使徒16:25で、パウロとシラスは、『祈りつつ賛美の歌を歌っていた』。これはギリシャ語では、プロセウコメノイ(祈る)ユムノウン(賛美の歌を歌う)トン セオン(神に)であるが、「祈る」という言葉の後に「動詞」が来ているこの場合、その動詞は、「祈りのための方法・手段」を現わす、という文法上の特質がある。つまり、彼らは、「賛美の歌を歌う、という方法で祈っていた」ということだ。この場合、祈ることが「目的」であり、賛美が「手段」となる。



 結局、「祈り」が手段であれ、目的であれ、いずれにしても、『神に』ということがポイントである
 つまり、祈りとは何か、と言えば、それは、「神に繋がること」だと言える。そうであればこそ、『絶えず祈れ』という教えが実現出来る賛美、黙想、祈り……手段は何でいいのだから、いつも神に繋がる……それは、可能となるのだ。


 その「祈り」を感謝をもって(新共同訳では『感謝を込めて』)祈るように、と聖書は言う。
 たとえ悲しくても、その悲しみを込めて、ではなく主は良いことをして下さる」という信仰から来る「感謝」を込めるのだそうすれば、人の思いを超えた神の平安によって心と魂が守られる、と聖書は教える。

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