預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

自制とは、我慢ではない(Ⅰコリント9:19~27)

9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。
9:21 律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。
9:22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。


9:23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。
9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
9:27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。



 まず初めに。
 教会ではよく「幻を持て」と言われるが、「」とは、「神からの語りかけ・戒め・メッセージの一つの形」であって、それを持たない民は堕落する、と箴言では教えられている(つまり、御言葉抜きでは人は堕落する)のであって、決して、大きな夢や野望を持て、ということではない


 しかし、それでも目標は必要である。何故なら、目指すべき正しい標的からズレてしまうことを「罪(的外れ)」と聖書は言うのだから


 パウロは、目標をはっきりと見定めていた。彼の向う方向、それは、『すべてのことを福音の為に』だ。ただし、福音の為に全てを犠牲にする、という意味ではない。その真意は、19~22節にある通り。要は、人の心に届く伝道を心がけたということだ。彼のやった(相手と同じ立場に立つ)ことは全て、福音を伝わり易くする為なのである。


 そのようにして、何とかして福音を伝えるという「正しい方向」に進んではいるが、それは「方向」であって「ゴール」ではない。まだその先がある。
 ゴールは『何とかして福音を伝えることによって彼自身も『福音の恵みを共に受ける者となる』だと言う。違う表現では、『人に宣べ伝えておきながら、自分が失格者にならない』であり、『朽ちない冠を受ける』なのである。そして、その結果、ついには神の栄光がほめたたえられる為(参照エペソ1:3~14)である。そこが行きつく先(本当のゴール)だ。


 そのゴール目指して自制する、とパウロは言う。スポーツマンがそうするように。例えば、ボクサーなら食事制限だ。チャンピオンという目標の為には、辛いけども自制が必要である。しかし、目標が違えば自制の内容も変わる。横綱を目指すなら、体を作る為に食べなければならない。これも辛い自制だ。つまり自制とは、感情や欲望を抑えることではなく、目標の為に自分の生活・行動を整えることなのだ。


 では、私達の目標は何か。それは、神の栄光がほめたたえられることだ。その為に自制するということは、その目標に相応しい生活・行動をする、ということなのだ。
 どうやってか。それは至ってシンプルだ。何かをしようとする時、「それが神の栄光となるかどうか」を考えて、それを選び取ればいいのだ。
 そのようにして、自らの体をもって神の栄光を現わす者となって行こう。

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