預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

遊んでは暮らせない(マタイ6:33~34)

6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。



 あす、何を食べようか、何を着ようか、という心配は無用だ、と主は言われた。何故なら、神が養って下さるからだ。


 だからと言って、働かなくていいというわけではない


 聖書はこう言っている。
私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」(Ⅱテサロニケ3:10~12)


 加えて、働ける・生きているということ、地上の環境も全て、神の恵みである。結局のところ、私達は決して自分の力だけで生きているのではなく、神によって命が支えられているということだ。


 だから、「あす何を食べよう」という心配は、結局、自分の力で生きようとすることであり、主が言われたのは、それを、やめて神に信頼して生きなさい、ということなのである。




 さて、では、『あすのことはあすが心配する』とは、どういうことか。それは恐らく、「あすのことはあすになってから心配しなさい」ということなのだろうが、それでは少し無計画過ぎないか


 一方、「自分の力で生きようとすること=あすのための心配」は無用なのに、『今日の労苦はある』と言う。ちぐはぐではないか。


 考え直そう。『あすの為の心配が無用』なのは、神に信頼すればこそだ。しかし、その「神への信頼」が今日、失われたらどうなるのかその信頼を、あす、回復させるつもりが、その前に今日、死んだらどうなるのか。そうなれば、どんな完璧な計画も万全の備えも吹っ飛んでしまう。


 あすの心配が無用になる為に、どうしても必要なこと、それは今日、神への信頼(信仰)を守ることだ。その為に信仰の戦いがある。それは、先延ばし出来るようなものではない。『その日、その日に、十分ある』のだ。


 だから、その点においては「あすのことはあすになってから」でいい。今日、神への信頼を確かにすることが先決だそれが『今日の労苦』なのである。そうすれば、あすの命は神が支えてくれる。


 ただし、『神の国とその義を第一に求める』なら、という条件がある。あくまでも、「そうすれば、生きる為の必要は与えられる」のであり、『だから、あすのための心配は無用』となるのだ。


 神を第一と出来るかどうか(すなわち、神に支配されたいという願いを、自分の最大の願いとするかどうか)。それも、「今日なすべき労苦(戦い)」である。私達は、今日、その日その日に、神への信頼を確かにしよう。

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