預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

確証はあるか?(ヘブル12:2~3)

12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。



 十字架をも忍ばれた主イエスのことを考えなさい、と聖書は言う。それは、私達の心が元気を失わない為、疲れ果ててしまわない為である、と。


 では、どんな時、私達の心は元気を失ってしまうのだろうか。箴言13:12には、『期待が長引くと心は病む』とある。


 確かに、いつまで経っても望みが叶わないというのは辛い。心も折れる。だから箴言は続けて言う。『望みが叶うことは命の木である』と。


 しかし、「望み」というものは、必ず叶うものなのか?


 よく言われる(特に、成功した=自らの夢を叶えた人が言う)言葉に、「諦めなければ必ず夢は叶う」というものがある。その言葉で励まされ、勇気付けられる人もいるだろう。しかし、それは間違いだ。
 勿論、諦めたら、そこでお終いである。諦めない限りは夢は続く。しかし、だからと言って、諦めなければ必ず夢は叶うとは言えない。何故なら、聖書も言う様に、『競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ』(Ⅰコリント9:24)からだ。つまり、仮に100人が走るなら(勿論全員が優勝という夢を叶えようとして走るのだが)、その内の99人は夢を叶えられず失望するということなのだ。
 この99人は、途中で諦めたのだろうか? いや、少なくともトップ争いをしていた何人かは、最後まで諦めずに走り通したはずだ。そう、諦めなかったのだ。しかし(一人を除いて)彼らの夢は叶わなかったのである。だから、「諦めなければ必ず夢は叶う」というのは正しくない。厳密に言うなら「諦めれば必ず夢は叶わない」(←変な日本語だが)である。


 では次のレースで・・・と期待を持つことは出来るだろう。しかし、次は必ず願いが叶うという確証があるわけではないから、期待が長引けば長引くほど「もうダメだ」という気持にもなる。だから、人生という道程を行く上において、そうなってしまわない為に、主の十字架を見なさい、と聖書は言うのだ。


 何故、主は、十字架という苦難の道を耐え、走り通すことが出来たのか。それは、『ご自分の前に置かれた喜びのゆえに』である。つまり、復活という「勝利・ゴール」は見えていた。それは確実だったから、ということだ。


 願いが必ず叶うという確証さえあれば(つまり、たとえ、どんなに長い年月がかかるとしても、それは必ず実現すると保証されてさえいれば)、希望は失われない


 人生という道程における勝利の保証、それが、主イエスの復活である。イエスを信じる者には、主の復活と同じく天の御国での勝利(地獄に落ちることなく永遠の命が与えられる)ゴールが約束されているのであり、そこに至るまでも、生きて働かれる主はいつも共にいて、助け、支えて下さる。それが私達の確信だ。


 ですから、その『確信を投げ捨ててはなりません』(ヘブル10:35)と聖書は言う。『それは大きな報いをもたらすもの』だからだ。そのことを証明する証人達が雲のように私達を取り巻いているのだから、忍耐をもって走り続けよう、と聖書は私達を激励する。


 だから、もし「失望感」が襲って来たとしても、私達は、それに対して徹底的に抵抗しなければならない。その為の訓練として、主は愛する者を叱り懲らしめられるのだ。


 私達には天の御国において復活という勝利が約束されている。その確信を見失わない為に、主イエスを見つめていよう。主は、その信仰の模範であり、完成者なのだ。主イエスの十字架に、希望と勝利と喜びがあるそのゴールが見えてさえいれば、心が元気を失わないですむのだから。

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