預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇107(やった、見つけた!)

 聖書は常に、イスラエルを媒介しての神のメッセージである。つまり、イスラエルに示された「神の愛」は、イスラエルにだけではなく、「全人類への愛」なのである。それを伝える媒体がイスラエルなのだ。


 さて、105、106篇と同じく107篇も歴史であるが、今回は「イスラエルになされた回復の歴史」である。例えば、10~16節はバビロン捕囚のこと(不信仰と偶像礼拝ゆえの裁き・報い)だが、『この苦しみのときに……主は彼らを苦悩から救われた』(19節)という通りだ。それが何度も繰り返し語られている(6、13、28節)が、決して「溺愛」なのではないイスラエルに対しては神は、忌み嫌われた(106:40)。 ただ、全人類に対する救いの計画を遂行する為の「回復」なのである。


 この詩の結論、それは『知恵のある者はだれか』(43節)だ。少し表現を変えれば「知恵のある者は誰かいないのか」そして「もし、いるなら、その者は悟れ」ということだと言える。
 主もルカ18章で「再臨のとき、果たして地上に信仰が見られるだろうか」(殆どいないのではないか)と危惧しておられたのと通じる。
 ただ「殆どいない」は逆に「少しはいる」わけで、問題は「何故、少ないのか。何を悟るべきなのか」だ


 その為に詩人は言う。「これらのことに心を留めて悟れ」(43節)と。「これらのこと」とは、すなわち「イスラエルの歴史」である。その歴史が何を示しているのかを悟るべきなのだ


 確かに、イスラエルの歴史の中に数々の奇跡がなされたが、その奇跡を現代に再現することが目的ではないそれらの奇跡は「囚われからの開放・自由」を示しているのである。それが「出エジプト」であり「バビロン捕囚からの解放」だ。そしてそれらは全て「キリストによる罪と死からの解放」へと導かれるようにということを示しているのであり、それを悟れということだ


 荒野を彷徨ったイスラエル(4~5節)は、約束の地(天国)への道を知らない人間の姿だ。しかし、イスラエルは不信仰ながらも神に導かれて約束の地に入った。その歴史を見て学び、時に反省し、主の恵みを悟れと詩篇は教える


 主が来られるときに「やはり信仰は見られない、悟る者はいないか……いや、いた!」と見つけて頂ける者であろう。

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