預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

赦して下さい?(ルカ23:33~34)


それでは今年も、聖書の教えを綴っていきたいと思います。



23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。



 主イエスに罪は無いということは、信じる者だけが勝手に言ってるのではなく、客観的にも認められていた。ピラトは3度も、無罪を宣告している。
 なのに人々は、主を十字架に付けたのである。それも、明らかに凶悪なバラバの釈放を要求し、主イエスを『好きなように』したのだ。
 よくもまあ神は、こんな罪深い人間を「救いたい」と願われたものだ。しかし、それは他人事ではない。イエスを十字架に付けた人間の「罪」、それは私達も同じなのだ。


 その十字架の上で、『彼らを赦して下さい。彼らは自分が何をしているのか分からないのです』と主は祈られた。それは、全人類の為の祈りだが、はたして、その祈りは実ったのか。その時点で、全ての人の罪は赦されたのか
 勿論、その後に信じて救われた人はいた。しかし、決して全員ではない。日本では未だに大部分の人が罪赦されていない状態だ。


 では、主の「祈り」は、聞かれなかったのか。無駄だったのか。主は、『私の願いをいつも聞いて下さることを知っています』と父に祈られたではないだろうか。


 一つだけハッキリ言える。それは「赦し・救いは、本人が悔い改めてこそ」ということだ。悔い改め無くして赦しは無い。たとえ主イエスが祈られたとはいえ、それで自動的に全ての人が赦されるわけではないのだ。


 では、『迫害する者の為に祈れ』という教えは何か。それは、『自分の側に関する限り全ての人との平和を求めなさい』(ローマ12:18詳訳聖書)との御言葉に答えがある。
 つまり、相手がどうするか、どうなるか、という問題ではなく、ただ自分の側では平和(ひいては、相手の最善:すなわち救い)を求めるようにということだ。そのような「とりなし」であって、それ以上(何か強制力があるの)ではない


 結局、主の十字架上での「祈り」は、虚しいお願いなどではなく「彼らが悔い改めたなら赦してあげて下さい」という心であり、その為に、ご自身が、まさにその時、十字架にかかっておられ、救いの道を整えておられた。そして、罪に気付くようにと聖霊を……。


 主は今も私達を幸いに導こうとしておられる。その聖霊の導きを受け入れるかどうか、それも自分次第である。

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