真実はいつも隠されている(マタイ6:6)
6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
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祈る、その動機は何か。何を願い、求めて祈るのか。それは、神からの報い(祈りの応え……祝福、癒し、問題の解決等)を求めてであるだろう。だからこそ、人々は「奇跡が起こる」と言われる有名伝道者の大集会にも足を運ぶ。
しかし、神からの報い、その最たるものは、罪の赦し、永遠の命、天国だ。そして、それに伴う、喜び、平安、愛、希望……。加えて、神の憐れみ、慰め、助け、癒し、恵み。それらは決して「この世」が与えてくれるものではない。
問題は、どうすれば、それらを豊かに受けることが出来るのかだ。主は言われた。自分の奥まった部屋に入って隠れて祈れ、と。そうすれば、父なる神が報いて下さる、と。
この教えを文字通りに受け取るなら、公の場で祈ってはダメだということになる。自分の部屋を持っていないと祈れない。教会で祈る祈りには報いはない、ということだ。
が、果たしてそうだろうか。
まず、そもそも普通、隠れるのは、どんな時か。それは、やましいことがある時、すなわち逃げている時だ。例えば、アダムも罪を犯した時、神の前から隠れた。加えて、恥ずかしい時も隠れる。あとは、かくれんぼをしている時か。いずれも、出て来たくない、見つかりたくない、だから隠れるのである。
しかし聖書は教える。隠れるのは、現れる為だと(マルコ4:22)。これは直接的には、たとえの中に奥義を隠したが、それはいつか必ず現わにされるということを言っておられるのだが、ルカの並行記事の方では、どんなことでも隠れているものは必ず現わされる、と言う。例えば、「隠れて言った言葉」(ルカ12:2~3)。そして罪も(Ⅰコリント4:5)。
では、隠れて祈ることによって現わされるものとは何か。それは、その動機・本音だ。人に褒められたいからなのか、それとも本当に神からの報いを求めているのか、が明らかになる。
つまり、もし、誰も見ていないところで一人で祈っているなら、それは、本当に祈りたいからだろう。ただひたすらに神の報いを求めている……それが本音だと分かる、ということなのだ。
だから、主が言われたのは、「うわべでではなく、本音で祈れ」ということ。誰が見ていようがいまいが、いつも神と一対一になれ(真剣に神と向かい合え)ということ、それが「隠れて祈れ」という教えの真意なのである。そうすれば神が報いて下さる。