詩篇33:9~12
神の言葉によって天と地は造られた。『主が命じられると、それは堅く立つ』と9節にある通りだ。ただ、詩人が言いたいのは「神の言葉は絶対だ」ということであり、その一例としての天地創造をもって「ほらね」と示しているのである。そして、神の言葉の絶対性の説明として「主の計画はなるが、国々の計画は神が虚しく(無効に)する」というようなことが10~11節に語られている。
だが、しかし。果たして神は、一国家の政策に介入し、その方針を変更させ、企みを無効にするのだろうか。人間の計画は決して達成しないということだろうか。ならば「何故……」という疑問は尽きない。迫害や悪政という人間の悪巧みが横行し、弱い者は苦しむ。大きな疑問である。その果ては「何故、神は沈黙するのか」「何故、助けてくれないのか」という神への怒り、失望、不信仰へと行き着くだろう。
箴言19:21にも『人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る』とある。一方は劣っていて、他方は優れている。そのような比較が成り立つのは、両者が同じ目的の計画を立てているからである。人と神が、それぞれに立てている計画、それは「救いの計画」だ。人は、行いによって(あるいは、偶像に頼って)救われようとする。しかし神は、十字架と復活(福音)によって救われよ、と教える。どちらも「救いの計画」ではある。だが、神の計画だけが成る、のである。人の(例えば、旅行の)計画ぐらい成るし、政府の悪しき計画も着々と進んでいる。しかし、救いにおいては、神の計画だけが成るのである。ゆえに『主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る』と詩人は言う。「信じる者は救われる」、その御言葉は絶対なのだ。だから幸いだ、と12節に続く。神を我が神とし、「神のもの」とされた人は、と。神は「ご自分のもの」を完全に守ることが出来るからだ。全能の神が「ご自分のもの」をみすみすと敵に奪われるわけがない。神のものとされた魂は決して滅びない。神が守る。その神がおられるなら恐れることはない。「神は天にいまし。世は全てこともなし」だ。主に信頼しよう。そして、自分(人間)の力の及ばない領域において、そこを「守って下さい」と神に祈ろう。