預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇33:13~17

 神は人の心を調べる。神は全知であり、何も神の前に隠すことは出来ないはずなのに、『地に住むすべての者に目を注がれる』のだという。一人残らず、その『わざのすべてを読み取る』と。そこまでして何を調べようというのか。それは、人がその心にどんな計画を持っているか、だ。何故なら、10~11節に言われていたように、人間の「救いの計画(善行、偶像など)」は、ならないが「神の計画(福音)」だけが成るということ、それが文脈だからだ。その文脈を無視するなら、「糸の切れた凧」のような無秩序な解釈になってしまう。
 さて、『わざのすべて』とは、人生の全て(生き方)だ。「人間の救いの計画」に基づく人生なのか、「神の救いの計画」に従う人生なのか(うわべでは分からない、その本当のところ)をスキャナーのように神は『読み取る』のである。つまり、うわべは神に頼っているように見えても、その実は「行いを誇る」とか「自分の力、この世の力(数、財力など)に頼ろう」という「計画」にしがみついていないか、ということだ。だから『王は軍勢の多いことによっては救われない』と、この詩は言う。それらが正義ではない。それらを頼りにするべきではない。誇るべきでもないのだ。信仰者が、それらを誇り、頼る心であってはいけない。それゆえ神は、人の心を調べる。
 勿論、調べられる、ということは、良い気のするものではないかもしれない。しかし、例えば病院で、念の為に他のところも調べてもらったら、大きな病巣が発見され、大事に至らずに済んだということが起こり得る。だから、神に調べてもらったほうが良いのである。たとえ、それで悪い所が見つかったとしても、それでも、自覚症状がないまま手遅れになるより、ずっと良い。神が調べるのは、罰する為ではなく、救う為、癒す為なのだから。バレてマズイことはないのだ。
 とは言え、心を正しくし、信仰を聖く保つことが必要だ。『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく』と箴言4:23にもある。しかし、どうしても自分の力の及ばない部分もある。だからこそ、神に調べてもらったほうが良いのである。神に心を委ねるなら、神が守る。だから、神に心を調べて頂こう。

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