預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

気づくのは、まだ幸い。

きょうは、3週間ぶりに公同の礼拝を捧げることが出来た。


と言っても、来られた信徒の方は、お一人だけだが。


何故だか、「一月いっぱいは、お休みします」という方がおられる。
何故、「一月いっぱい」なんだろう。
キリがいいから?
でも、キリとか、関係ないと思うんだけど。


とにかく、人がいようがいまいが、いつものように、力いっぱい賛美し、説教を語った



が、いかんせん、久し振り。
なんとなく、感覚がついてこない


それは退院直後もそうだった。
なんとなく、地に足がつかない、と言うか、フワフワしてると言うか、
時差ボケみたいな感じ、かな。


礼拝堂での賛美も、ギターの弦を押さえる左指の違和感、耳に入る音の感覚の違和感。


やっぱり、ブランク って大きい




あるピアニストは言った。


「練習を1日休んだら、自分が気づく」
「2日休んだら、家族が気づく」
「3日休んだら、大衆が気づく」


大袈裟に言い過ぎ、かもしれないけど、そういうものだ(すぐ衰える)ということは伝わる。



そう、だからこそ、魂のリハビリのために、きょうは公同の礼拝をしたかった
誰もいなくても。
自分自身のために。

×

非ログインユーザーとして返信する