預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

叱られて学ぶ(哀歌3:25~32)

3:25 主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
3:26 主の救いを黙って待つのは良い。
3:27 人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
3:28 それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。
3:29 口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。
3:30 自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。
3:31 主は、いつまでも見放してはおられない。
3:32 たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。



 「エルサレムの滅亡~バビロン捕囚」を嘆き哀しむ歌である。
 が、同時に、民に悔い改めを求め、神に立ち返れと訴えもする、それが25節だ。


 続く26~30節は、なんとなく格言ぽい。27節などは日本の格言「若い時の苦労は買ってでもしろ」に似ている。あるいは「可愛い子には旅させろ」か。その目的は勿論、訓練だ


 するとイスラエルがバビロンに連れて行かれたのは修行か何かの目的かと言えばそうではない。それは、不信仰と偶像礼拝の報いであり、神に見捨てられたのである例えばアダムとエバも、エデンの園から出されたが、それは修行としてではなく、罪の報いなのと同じだ。だからこれは格言などではなく、悔い改めを促す現実的な教えなのである。


 では、30節「自分を打つ者に頬を与えよ」はどういうことか。「右を打たれたら左も出せ」と似ているが、そうなのだろうか。いや、哀歌は「左も出せ」とは言っていない。「叱責から逃れようとせずに十分懲らしめを受けよ」と言っているのである。


 そして「若い時にそうするのは良いことだ」というのが27節。それによって、懲りて、悔い改めに至るかもしれない。そこに希望がある(それを期待できる)と29節。
 そうすれば「主はいつまでも見放してはおられない、憐れんで下さる」と31~32節。
 だから懲らしめから逃れるべきではない、それはヘブル12章でも教えられていることであり、決して、苦しめたいのではなく、我が子として扱って下さっているということなのだ。


 とにかく哀歌は、単に哀しんでいるのではなく、「神に立ち返れ」と訴えるのである。それも、神を知っていながら神に背を向けるイスラエルに対して「神を待ち望め、神御自身を求めよ」とだ。イザヤ30:15にも「神に立ち返って、静かに信頼すれば救われる」とある。哀歌が教える通り、「主は慈しみ深い。主の救いを黙って待つのは良い」(3:25~26)のだ。


 この哀歌のメッセージは、今の時代のクリスチャンにも訴えかける。「現世御利益ばかりでなく、神御自身を求めよ」と。「偽りの(流行りの)教えから真理に立ち返るべきだ」と。


 真理を知らずして、真理なる神に信頼できようはずがない。この叱責から逃げずに、十分に懲らしめを受けて、正しい道へ導かれよう。

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