預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

欲望に基づく信仰は、神に敵すること(ヤコブ4:3~7)

4:3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。
4:4 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。
4:5 それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。
4:6 しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」
4:7 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。



 世を愛することは神に敵対することであると聖書は言う。
 ゆえに『世をも、世にあるものをも愛してはならない』とⅠヨハネ2:15に言われている。
 すると、私達は世を憎むべきなのか。いや、誰よりも、神ご自身が世を愛されたではないか。それも、『ひとり子をお与えになるほどに』だ。


 では何故、「世を愛することは神に敵対すること」だと言うのか


 それは、3節の『願っても受けられないのは、自分の快楽のために願うから』ということについて言われているのである。ここで責められているのは、信仰・祈りが自分の快楽のためになっているということである。



 信仰や祈りは何のためか


 癒しや祝福、恵みを求めて自分のために祈るのは悪くはない。しかし、それは、あくまでも、そのことを通して神の栄光が現わされるように、と願ってのことであるべきで、そうでないなら、結局のところ、祈りが自分の欲望のためということになりかねない。本当は、究極的には、「生きるのも主のため死ぬのも主のため」、それが信仰であるはずだ。


 そのように、神の栄光のための信仰(神を喜ばせるべき)なのに、そのために使っていない(この世の欲望のために使っている)ことを「世を愛する」と言うのであり、そのような人のことを「貞操のない人(浮気者)」と聖書は言うのだ。
 そして、神は『妬む』という。それは、例えば、夫婦でデートしている時に、夫が他の女性に見とれている時のようにだ。


 もし、私達が、神とのデート(礼拝)の時に、心ここにあらず、気もそぞろ、となるなら、主は妬まれるだろう。だから、神から目をそらさず、神と向かい合うことが必要だ。それでこそ、主が求めておられる「真実な礼拝」となることが出来るのだから。 


 『神の命令を守れ。これが人間にとって全てである』と聖書は言う。


 神の命令とは? それは、『心を尽くして……主を愛する』こと、それが命令の全てだ、と主は言われた。その命令を守ることが「神に従う」ことなのである。そうすれば、悪魔は逃げ去る。
 心からの礼拝と賛美を捧げ、神を愛する(神に従う)者となろう。

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