どこに愛があるのか(ヨハネ13:1~8)
13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
13:2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、
13:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
13:6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
13:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
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「最後の晩餐」と呼ばれる、その特別な『夕食』の時、ユダは、すでに主を裏切るつもりになっていた。『が』と聖書は続く。この『が』に意味がある。つまり、確かに、主は裏切られた。が、そのせいで死んでしまった、のではないということだ。主は、初めからの神の御計画に従って、十字架で死ぬ為にこの世に来られたのだ。
そして、『父から来て父に行く(つまり、十字架で死んで後、天に帰る)ことを知られ』て、主は、弟子達の足を洗われた。
洗足、それは、しもべの仕事である。
主は、とことんまで、しもべとなられた。それは『死に至るまで忠実に』だ。
つまり、その洗足は、十字架で死ぬほどに人間に仕えられた主の姿を表しているのである。ゆえに、その洗足を拒むということは、十字架を受け入れない(神との関係が無くなる)ことに繋がる。だから主はペテロにそう言われた。実に、ペテロには主の御心が何も分からなかったのだ。
さて、『ご自分の時が来たことを知られ』て、主は、『その愛を残すところなく示された』 最後の最後に、愛する者に残す、心を込めた言葉、それが「告別の説教」である。
しかし、その説教の中で主は、ユダとペテロの裏切りを予告された。二人は、確かに主を裏切った。だが、ユダと違ってペテロは立ち直った。何故、ユダは悔い改められなかったのか。二人の違い、それは、御言葉を聞くか聞かないか、だ。
ユダは、『最後の晩餐』の途中で出て行った。そののち主が語られた、『私にとどまれ』などの教えの数々をユダは聞いていなかったのだ。だが、ペテロは聞いていた。『信仰は聞くことから始まる』と聖書の言う通り、その聞いた御言葉が力となり、彼は、弟子達の元に戻って来た。主の元から去るという最悪の事態に至ることは避けられたのだ。
御言葉を聞くか聞かないか、その差は余りにも大きい。
それは天国と地獄ほどの差を生む。
だから主は、ありったけの愛を込めて、告別の説教を語られた。御言葉を聞かせること、そこに「愛」があるのだ。
そして主は今も、私達にその愛の言葉(教え・聖書)を語られる。私達は、その愛を残すところなく受取ろう。御言葉を聞くことを大切にして、御言葉に生き、主の中にとどまる者となろう。