預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

復活(Ⅰテサロニケ4:13)

4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。



 基本的には、人が死ぬ、というのは、当然ながら悲しいことである。愛する人に二度と会えない、その声を聞くことはもう出来ない、笑顔も見ることが出来ない、悲しい、寂しい、悔しい、つらい、と感じる、それが死である。


 しかし、そんな悲しみにいつまでも沈み込んでしまわない為に知ってほしいことがある、と聖書は言う。それは勿論、復活、永遠の命、天国だ死で終わりではないということなのである。


 もし、人間の行き着く先(ゴール)が死であるなら(そこから先は無いなら)、人は死ぬことを目指して(死ぬ為に)生きているということになるのではないか。それなら、今、頑張って生きることに何の意味があるだろうか。それどころか、本当は誰でも、死なない為に頑張っているのではないか。そう、死はゴールであってはならないのだ。


 何をゴールとするか(何を目指すか)、それで人生が変わる。もし天国を目指すなら(死んでおしまいではないと信じるなら)、その信仰が生きる力となる。努力や、頑張って生きることが無駄ではなくなるからだ
 決して私達は、根拠の無いことを妄信するのではないキリストは確かによみがえられたのだ。その事実があるゆえに今、教会が存在しているのであり、それを信じる信仰のゆえに、多くの人に、新しい人生、希望が与えられているのだ。信仰には、その力がある。


 その神の力は弱いところに現わされると聖書は言う。
 弱さ、それも全ての人にとっての最大究極の「弱さ」がある。それが死だ。しかし、その「弱さ」に完全に現わされる神の力、それが復活・永遠の命・天国なのである。その希望(信仰)が、力であり、人生の宝だ。


 宝のあるところに心もある、と主は言われた。
 ということは、宝(天国というゴール)を知らない、持っていない…なら、心も見失われる墓がゴールなら、心も死ぬ
 しかし、キリストは墓からよみがえられた。信じる者に希望と力と命を与えるために。だから、地上での人生の中に、たとえ、どんな弱さ、悲しみがあろうとも、そこに神の力が現わされる。復活の勝利が与えられるのである。


 このことを知らないでいてもらいたくない、と聖書は言う。希望なく、悲しみに沈みこんでしまわない為だ。主の復活を喜ぼう。

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