預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

答えは、聖書に!(アモス9:7~12)

9:7 「イスラエルの子ら。あなたがたは、わたしにとって、クシュ人のようではないのか。――主の御告げ。――わたしはイスラエルをエジプトの国から、ペリシテ人をカフトルから、アラムをキルから連れ上ったではないか。
9:8 見よ。神である主の目が、罪を犯した王国に向けられている。わたしはこれを地の面から根絶やしにする。しかし、わたしはヤコブの家を、全く根絶やしにはしない。――主の御告げ。――
9:9 見よ。わたしは命じて、ふるいにかけるように、すべての国々の間でイスラエルの家をふるい、一つの石ころも地に落とさない。
9:10 わたしの民の中の罪人はみな、剣で死ぬ。彼らは『わざわいは私たちに近づかない。私たちまでは及ばない。』と言っている。
9:11 その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。
9:12 これは彼らが、エドムの残りの者と、わたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるためだ。――これをなされる主の御告げ。――



 イスラエルが社会的にも道徳的にも退廃した原因、その始まりは宗教的堕落である。そこで神は、アモスに「お前達は異邦人のようだ」(7節)と言わせ、イスラエルを責めた。そして「根絶やしにする」(8節)と。
 ただ「全く根絶やしにはしない」というのは何故か。中には本物の信仰者がいるだろうからだ。
 ゆえに「ふるいにかける」(9節)。


 その後、回復させる「ダビデの仮庵を建て直す」(11~12節)と言う。


 これを「賛美と礼拝の回復の預言だ」とする解釈がある。「そうすればリバイバルが来る」とも言う。


 しかし、答えはそれではない


 それは使徒15章において明らかだ。異邦人もキリストを信じて聖霊を受けたということ、それがアモス書の預言(ダビデの幕屋の回復)の成就だと、聖書自身によって解き明かしがされているのである


 その結果、異邦人信者には割礼も律法も不要だと決定された。


 ユダヤ人には律法は生活であり、律法に養育されてキリストに導かれたユダヤ人クリスチャンが律法を捨てる必要は無いが異邦人クリスチャンは、律法抜きでキリストに導かれたのだから律法を取り入れる必要が無いのである


 初代教会(使徒達)は、異邦人クリスチャンに余計な重荷を一切負わせないということを決定した(使徒15:28)。そう、主も言われた。重荷を下ろさせてあげるから来なさい、と。


 所が何故か、信徒に色々な重荷を背負わせるのが「キリスト教」だ家庭も体も壊れてしまう程の重荷に苦しみ、本来なら身も心も休めるはずの日曜は、ヘトヘトになり、遂には教会を去るという現実がある。


 全ての不幸の始まり、それが「御言葉の誤解」である勝手な思い込み、曲解、自己実現の為に聖書を利用する、等があってはいけない


 アモス9:11~12は、何のことか。使徒15章でハッキリと言われている「聖書が何を言ってるか」を読まなければいけない


 「その日が来る」(アモス9:13)。


 救いの完成の日(天国に入る日)だ。


 その日には、約束の地で永遠の命を生きるようになる、それが15節だ。それまでの間、神の民は、ふるいにかけられる、それが9節。神の叱責に耳を貸さず、「私は大丈夫」とあぐらをくんでいるなら滅びる、というのが10節。


 私達は「その日」に備えて、純粋な信仰を守ろう。

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