預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

備えあればうれしいな(ルカ14:25~30)

14:25 さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。
14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
14:28 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。
14:29 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、
14:30 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。



 クリスチャンは、師である主イエスから真理と幸せへの道を学ぶ者であり、『あらゆる国の人々を弟子としなさい』と主が言われた通り、全ての人は主の弟子になるようにと招かれている


 だが、「家族を憎み、自分の命をも憎まなければ弟子にはなれない」とも主は言われた。それが、主の弟子になる為の備えであり、重要なポイントである。
 例えば、塔を建てる時や敵と戦う時に、備えが不十分だと、嘲笑われる結果となるなおのこと、主の弟子となる備えは、ぬかりなく、十分過ぎる位に必要なのである


 しかしながら、聖書の「自分を愛するように隣人を愛せ」「家族を顧みなさい」という教えとは矛盾するではないだろうか。


 実は、「憎め」ということの意味は、「軽視する」「より少なく愛する」ということである。つまり、家族や自分を愛することをやめろ、というのではないけれども、神より上の位に置くな、ということなのである。要するに、偶像にするな、ということだ


 ともすれば、色々なものが(家族でさえも)偶像となり得る。勿論、クリスチャンなら、家族を神としたり拝んだりはしないだろう。しかし、神より大切なものは偶像となってしまう。
 だから「家族を愛するな」と言うのではない。主は何と言われるか。「捨てろ」(マルコ10:29~30)だ
 ただ、これも「ゴミのように扱え」という意味ではなく、「そのままにしておく」「残して去る」ということである。家族への愛をゼロにするのではなく、10なら10のまま、それはそのままで、一旦それを置いて、主に従え、ということである。 


 それなら(家族を恨んだり、呪ったり、敵対したりする必要はないのなら)何も変わらないではないかいったい何が「弟子の備え」なのか、と思えてしまう
 しかし、そんな自分の思いをも捨てて十字架を負う(神の御心を受け入れる)ことが必要だ。そうでないと、自分の思い(自分自身)が偶像になりかねないからである


 とにかく、偶像を作らないこと、それが「備え」だ


 その備えがあれば、嬉しいな、と主は喜ばれるだろう。そして、師から学ぶ弟子である私達の人生にも喜びが満ち溢れる。

×

非ログインユーザーとして返信する