預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇42:1~5(revisited)

42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
42:2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。
42:3 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。
42:4 私はあの事などを思い起こし、御前に私の心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。
42:5 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。



 鹿(それもヘブル語では女性名詞が使われているので、雌鹿)は、力の無い弱い動物だ。水場では他の獰猛な動物に襲われる危険がある。しかし、生きるためには、水を求めてそこへ行かなければならない。そんな雌鹿のように、どれほどの妨げ(リスク)があっても、生きる為に神を慕い求める、というのだ。つまり、私達にとって、水場に行くということは、神の前に出るということなのである


 ただ、この詩の作者は、かつての恵まれた礼拝の日々を思い起こしながら、「いつになったら神の前に出れるのだろうか」というような嘆きを語る。それが不可能な状況にあったのだ。命が危険にさらされる、そのような非常事態においては、「ひたすらに主に仕える」ということが困難となる。ゆえに、秩序ある生活(平和な世の中)が守られなければならない(Ⅰコリント7:35参照)


 今、私達は、神の前に出る「自由」が与えられている。それを奪われないようにしたい。だが、もしかしたら、自分自身がそれを奪ってしまうことがあるかもしれない。余りの問題の大きさのゆえに、苦しみ・悲しみのゆえに、絶望して、神の前に出ることを諦めてしまうかもしれないのだ。


 しかし『わが魂よ。何故、おまえは絶望しているのか』と作者は自問する。確かに。生ける真の神を信じていて、何故、絶望しなければならないだろう。そう、思い乱れている場合ではない。神を待ち望み、神を慕い求め、雌鹿のように水場に行くべきだ。そこに命の水がある。


 Ⅰペテロ2:2では、『生まれたばかりの乳飲み子のように』御言葉のミルクを慕い求めよ、とある。鹿も赤ちゃんも、弱く力が無い。しかし、生きる為にどうしても必要な「それ」を得る為に全精力を傾ける。そんな彼らのように私達も神を慕い求めるべきだ


 勿論、絶望を感じる時も、思い乱れる時もあるかもしれない。それでも『なおも神をほめたたえる』と作者は言う。『私の救い、私の神を……そこに「救い」があり、「助け」があり、「慰め」がある私達の魂もそれを求めてあえいでいる。生きる為に「それ」が必要だ。だから、命の水を慕い求めて、雌鹿のように、全力で水場(神の前)に行こう。

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