預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

ただ憐れみ(マルコ1:38~42)

1:38 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」
1:39 こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。
1:40 さて、ひとりのらい病人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」
1:41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」
1:42 すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった。



 神であるお方が、「福音を知らせる為に」わざわざ人となって来て下さった。が、それにしては、あまり歓迎されなかった。ヨハネ1:11にある通りだ。


 例えば、花粉症の特効薬の開発は、それで悩む人には福音だが、そうでない人には何も「良い知らせ」ではない。どうでもいい情報に過ぎないのだ。同じように、「自分で生きて行ける」「救いなど必要ない」という人には、罪の赦し・救いを伝える「福音」も無用なものとなってしまう。しかし、救いを求める人・神を必要とする人には、まさしく福音である。


 さて、主は、深く憐れんで、病人を癒された。創世記19章では主は、ためらっていたロト達の手をつかんで救い出された。それは『主の憐れみによる』と記されている。救いも癒しも、主の憐れみの故であって、決して、人間の願いや努力によるのではない


 だからと言って、「憐れんで下さい」という願い(祈り)が無用ということではない。しかし、「求める」という行為に対して必ず報いがあると考えるならば、それは「報酬」であり、恵みではなくなってしまう。あくまでも、神が「憐れもう」と思って下さるならば、ということであり、主体は神であるのだ。


 では神は、誰を憐れまれるのか。それは、「神を恐れ、主の御名を尊び、忠実に仕える者」をだ(詩篇103:13、マラキ3:16~17)。


 その点、律法学者・パリサイ人達は、自らを「義なる者」と考えていた。それは、言いかえれば「自分には神の憐れみなど無用だ」ということなのである。そこに神への恐れはない。


 神の憐れみを必要としない人には、せっかく主が知らせて下さった「福音(=神の憐れみによる、救いと解放と癒しの知らせ)」も単なる情報に過ぎなくなってしまう。しかし、「私は神の憐れみがなくては生きて行けない弱く小さな者です」と、へりくだり、神を恐れる人にとっては、「福音」は、救いと癒しと解放をもたらす、まさに「良い知らせ」となるのだ。


 私達は神の憐れみを必要とする者として、へりくだって、求めよう。

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