預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

THE 信仰(使徒13:16~23)

13:16 そこでパウロが立ち上がり、手を振りながら言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を恐れかしこむ方々。よく聞いてください。
13:17 この民イスラエルの神は、私たちの先祖たちを選び、民がエジプトの地に滞在していた間にこれを強大にし、御腕を高く上げて、彼らをその地から導き出してくださいました。
13:18 そして約四十年間、荒野で彼らを養われました。
13:19 それからカナンの地で、七つの民を滅ぼし、その地を相続財産として分配されました。これが、約四百五十年間のことです。
13:20 その後、預言者サムエルの時代までは、さばき人たちをお遣わしになりました。
13:21 それから彼らが王をほしがったので、神はベニヤミン族の人、キスの子サウロを四十年間お与えになりました。
13:22 それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされましたが、このダビデについてあかしして、こう言われました。『わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する。』
13:23 神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主イエスをお送りになりました。



 「救い主はダビデの子孫から出る」というのだから、ダビデは神の「救いの計画」に欠かせない。しかし神は、その『ダビデを見いだした』という。なんと、神は、「計画」を実行する為に必要な人材(忠実な信仰者)を「捜して」、そして見つけたというのだ。見つけた時、神は、さぞかし喜ばれたろう。主のたとえ話(ルカ15章参照)で言われている通り、神は「捜すお方」なのだ。それも、見つかるまで。


 だが問題は、「見つかるのか?」ということだ。そして神は、世の終わりの時には、地上に信仰者を「見つけられないかも……」と思っておられる(ルカ18:8)。


 確かに今の時代、パウロもペテロもいない。聖人・偉人と言われる様な信仰者はいないかもしれない。しかし、神は、そのような(ある意味特殊な)信仰者を捜してはいない。主が捜しておられる「信仰」は、原文では「冠詞付きのピスティス」、英語では、the faith 、つまり、「イエスは主、真の神、救い主」という根本的な、これぞ信仰、という信仰なのだ。


 その信仰が終わりの時に「見つかるだろうか」と危惧しておられるのである(マタイ7:21~23参照)。何故だろう。今現在(2021年)ですら全世界には20億人ぐらいのクリスチャンがいるとされているのだから簡単に見つかりそうなものだが。


 そう、主が捜しているのは、純粋な信仰者だということだ。


 世の終わりには、偽預言者、偽りの教えがはびこる。信仰を利得の手段と考え(Ⅰテモテ6:5)、地上のことしか考えていない(ピリピ3:19)、そんなクリスチャンが増えるのだ。だからこそ主は、本物の信仰者を捜すのだ。勿論、見つからないなら「石ころから造る」ということもできる(ルカ3:8)。が、主は捜す。何故なら、見つからないと悲しいからだ。例えば、行方不明になった子供を捜して見つからないからといって「次を作るか」では済まないのと同じだ。見つかるまで捜す、それが愛なのだ。


 ダビデの時は、見つかったから良かった。


 しかし、ソドムとゴモラの時は見つからなかった
 その時、神はさぞ悲しまれたろう。


 そして次に主が来られた時に、地上に本物の信仰が見られなかったら、主はどれほど悲しまれるだろう。私達は、主を悲しませることのないように、見つけて頂ける者となりたい。


 その為に、『純粋で混じり気のない御言葉』を慕い求めよう。『それによって成長し、救いを得る』為だ(Ⅰペテロ2:2)。教えの風に流されてはならない。ユダ20~21にある通り、聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、主の憐れみを待ち望もう。

×

非ログインユーザーとして返信する