預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

いいけど、ダメ(ローマ3:23~24)

3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。



 全ての人は罪を犯した、と聖書は言う。人の前になら、「私には罪は無い」と言える人がいるかもしれない。しかし、神の前にそんな主張が出来る人はいない。それが「原罪」(アダムとエバ以降、全ての人は神に背中を向けて生きている、ということ)だ。
 そのせいで『神の栄誉を受けられない』のだ、と聖書は言う。別訳に『神の栄光に達しない』とあるように、届かないのだ。求める「幸せ」に、神の用意しておられる栄光ある姿に。


 さて、罪とは何か。多くの場合、聖書の教えは誤解されている。罪もしかり。どうしても、罪と聞くと、何か悪いことをした、とイメージされるのではないだろうか。勿論、それも罪だが、本質的には罪とはそういうことではない。


 Ⅰコリント10:23では、『何をしてもいい』と教えられている。ただし、全てが有益とは限らない(有害なものもある)が。


 さて、何をしてもいいとはいえ、信仰は捨てられない。『主の杯を飲んだうえ、さらに、悪霊の杯を飲むことは出来ない』(同21節)のだ。つまり、「何をしてもいいけど、出来ないことがある」ということだ。
 逆に、「出来るけど、してはいけない」こともある。真の神を無視して自分勝手に生きることがそれだ。多くの人は容易にそれをしている。しかし、それはしてはいけないことである。すなわち、「主イエスを信じなさい。そうすれば赦される」と悔い改めに導く聖霊に逆らう罪は決して赦されない(マタイ12:31~32)のだ。主イエスを信じるなら、どんな罪も赦されるが、それを拒む(聖霊に逆らう)のだから、何一つ赦されはしない。地獄に落ちるしかない。


 結局、「こんな事をしたら地獄だ。決して赦されない」というような罪は無い、のである。主イエスを信じるなら、どんな罪でも赦される。『キリスト・イエスの贖いのゆえに、値なしに義と認められる』のである。そして、それは『ただ、神の恵み』による。
 神は、その恵みと栄光の中に私達を導く。御言葉と御霊によってだそれに逆らうことは出来るだろう。しかし、それはしてはいけない。私達は、主に従って、神の栄誉に届く(恵みを受け取る)者となろう。

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