預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

泣いて(マタイ13:34~43)

13:34 イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。
13:35 それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」
13:36 それから、イエスは群衆と別れて家にはいられた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください。」と言った。
13:37 イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。
13:38 畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
13:40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
13:41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、
13:42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
13:43 そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。



 「種蒔きのたとえ」に続いて「天の御国のたとえ」も、群衆はおろか弟子達さえも理解出来なかった。そこで主は再び解説をされたのだが、基本的に、解説というものは、分かり切ったことは言わない。聞く者が理解していない(あるいは誤解している)部分を説き解すのだ。
 さて、ポイントは『火の燃える炉に投げ入れられて泣いて歯ぎしりする』のは誰か、だ。勿論、真の神を信じない者は、そうなるのだろう。
 だが、ここでは、未信者のことを言ってるのではない。『御国から』とあるように、クリスチャンの中から『つまづきを与える者注:クリスチャンをつまづかせるのは、実に、クリスチャンである)、不法を行なう者』を取り集めて火に投げ入れるのだ。49節にも『正しい者の中から悪い者をえり分け』とある通りだ。実に『泣いて歯ぎしりする』のは、クリスチャンの中のある人々、なのである


 私達は、「クリスチャンである」ということに安心し切ることは出来ない。救いを疑えということではない。主イエスを信じた者はすでに救われている。ただ、「クリスチャン」だからと言って全てが正しいというわけではないのだ。酷い場合には、「神がいるかどうかは分かりません」と言う牧師もいる。偽教師、偽預言者、偽使徒がウヨウヨしているのだ。それが畑の中に蒔かれた「毒麦」である。


 その毒麦を「育つままにしておけ」というのだが、何故、悪を放置するのか、という疑問もあるかもしれない。『間違って麦も一緒に刈るといけない』と言うが、神なら正しく判断(見分けが)出来るだろう。何故、悪を放置するのか。
 実は、これはカルト化が大問題となっている現代の教会への神の憐れみである。と言うのは、もし今、神がご覧になれば、「毒麦」と判断される教会があるとしても、後には、正しい道に戻るかもしれないのだ。だから、最後まで主は待つのだ。
 ただし、最後の時に『地上に信仰が見られるだろうか』(ルカ18:8)と主は危惧しておられるのだが。
 だから大切なのは、そんな、どっちに転ぶか分からないような危ない信仰に立つのではなく、今の内から教えの純粋性を守ること。そうすれば、『御国で太陽のように輝く』のだ。

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