預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

言い伝え と 良い伝え(マタイ15:10~20)

15:10 イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。
15:11 口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」
15:12 そのとき、弟子たちが、近寄って来て、イエスに言った。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」
15:13 しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。
15:14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」
15:15 そこで、ペテロは、イエスに答えて言った。「私たちに、そのたとえを説明してください。」
15:16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。
15:17 口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。
15:18 しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。
15:19 悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。
15:20 これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」



 手を洗わないでパンを食べるのは違反である、と律法学者達が言うので、主は群衆を呼び寄せ(それまでは「聞いても分からないように」と、たとえで話されていたのに)、『聞いて悟れ』と言って「口に入る物は人を汚さない。口から出るものが人を汚す」と話された。それほどに悟ってほしかったことなのだ。


 確かに律法は「汚れを避けるように」と教えているが、「パンを食べる前に手を洗え」というのは、人間の考えであとから付け足された掟(言い伝え)に過ぎない(衛生上は良いことだが、神が決めた宗教上の律法ではない)。


 もし本当に、律法に従って汚れを避けようというのなら、口から出るもの(悪い思い、罪など)を取り除くべきではないか、というのが主の主張である。
 そもそも、律法の目的は何か形式的に掟を守ることよりも、律法の本当の目的を知って、それを行なうことが重要である。それは主が常に律法学者達と論争していたことである。安息日に人を救って何が悪いのか、という風に。


 主が言われた通り、聖書の教えは、縛る為ではなく、生かす為である律法は、罪を自覚させ、キリストの救いに導く為)。
 それは新約聖書も同じだ。
 例えば「主の祈り」。それは「唱えなければ……」というような掟ではない。その祈りを通して「日ごとの糧を与えて下さる」主への信頼を養うことが目的なのだ。そのように、キリスト教は、教えを守ることを目指すのではないのである。主は、そのようなことを悟らせたかったので、その為に、群衆を呼び寄せて言われたのだ。


 ローマ13:9に『どんな戒めも、隣人を自分のように愛せよという言葉の中に要約されている』とある。つまり、殺すな、盗むな……それらは、要は「隣人を愛せよ」ということである。偶像を拝むな、神を試すな……それらも要は「神を愛せよ」ということである。
 律法の目的は、愛なのだ。ゆえに『愛を追い求めなさい』(Ⅰコリント14:1)と聖書は言うのである。神は私達を教えで縛る為に召し出されたのではない。神を愛し人を愛し幸せになる為に、教えが与えられているのだ。その伝えられた教え(聖書)は、愛と幸せに良く効く「良い伝え」なのだ。

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