預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

立派な信仰(マタイ15:21~28)

15:21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
15:22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。
15:24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
15:25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
15:26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。



 良く言われるように、「娘の癒しを求めるカナン人の女性に対する主イエスの態度は冷たい」と感じざるを得ない。そして最後には、女性に対して『ああ、あなたの信仰は立派です』と言われた。ということは、やはり、間違っていたのは主イエスの方だということか。いやそこには思惑があるはずだ。改めて見直そう。


 確かに、子供達のパンを取り上げるのは良くない。救いはまずイスラエルからだ。だがしかし、異邦人を救ったからといって、イスラエルの救いが無くなるのだろうか? 無限の神は、実際のパンだけでなく、命のパンを幾らでも与えることが出来るはずだ。だから、主は(イスラエルにしか遣わされていない』と言いながら)サマリヤの女性にも救いの導きをなされた
 そのように、異邦人を救うことはイスラエルから救いを取り上げることではないのだ。勿論、順序的にはイスラエルから、ということではあるが、しかし神の目的は、イスラエルから始まった救いが全世界に及ぶことなのだ。その神の御心を悟ることが大事なのであって、戒めに縛られて御心を見失うのは愚かなことだと、主は数々のたとえによって教えられて来た。このカナン人の女性は、そこに気付いた(のか、どうか……無意識にかもしれないが)。そして、その主の御心にすがったのだ。そのような信仰を『立派だ』と主は言われた。それこそ主が、群集に悟らせたかったことだからだ。


 もう一人、百人隊長も、主から信仰を称賛された(マタイ8:5~13)。兵士として、上官の権威を良く知っていたゆえ、神の言葉の権威を堅く信じたからだ。比べれば、カナン人の女性は、ごく普通の人、一般人、しかも異邦人だ。何の働きも無かったのではないだろうか。しかし、それでも、その信仰を『立派』と称賛された。


 だから、私達も「立派な信仰者」になれる。厳しい修業をしなくても、大きな働きをしなくても、有名にならなくても、ただ、神の御心は生かすこと、救うこと律法は縛る為ではない、戒めを守る為に生かされているのではないのだということを知る、それが立派な信仰なのだ
 私達は、御心を理解し、信じて主の憐れみにすがろう。そして、そのような信仰が自らの内に常にあるかどうかを、見直しつつ歩もう。

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