預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

全てを委ねて?(マタイ18:1~4)

18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、
18:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
18:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。



 天国では誰が一番偉いのか、という弟子達の質問に、主は『自分を低くする者』と答えられた。それも『子供のように』だ。何故なら『子供のようにならなければ、天国に入れないから』だという。ということは、天国に入れた人はみな偉いということだ。弟子達はさぞガッカリしただろう。みな「自分こそ」と思っていたから。


 さて問題は「何を」「どう」子供のようになれと言うのかだ。それは「自分を」子供のように「低く」するということであるが、それを「へりくだり」「謙遜」と理解するべきではない。その点においては、子供は模範にならない(子供は、自分を低くしようと思っているわけではない)からである。(勿論、身長を子供のように低く…ということでもない


 子供の何が模範となるのか。それは、小さな子供は親に完全に委ね切っている、というところである。自分が生きる為に必要な事々も何もかも、親任せで、何も心配していない。ゆえに平安
 それと同じように、父なる神に信頼せよ、ということであり、それが本当の神の子供なのだ。そうでなければ、決して天国に入れない。
 たとえば、『天に住まいを用意する』という主の言葉、『十字架によって全ての罪は赦される』という聖書の教えに、もし信頼しないなら、どうして天国に入れるだろうか。その点においては、小さな子供のように、全く父なる神に信頼し委ね任せ切らなければならない。そうでなければ決して天国に入れないのだ。


 そういうわけだから、全てを神に委ねよう、とは言わない。それは聞こえはいいが、偽りだ。聖書は私達人間が自分でなすべき責任があることを教えている。神に委ねるべきは、自分の力ではどうにもならない事(命や、家族の救いなど)である
 勿論、出来る事(健康管理、伝道、祈り)は全力を尽くすべきである。しかし、全力を尽くした後、その結果がどうなるかは、手の届かない領域であり、委ねるしかないのである。が、それが難しい。どうしても、自分の願い通りの結果を求める。それが人間だ
 だから、そこで、子供のようにならなければならないのである。神は最善をなして下さると信頼して委ねよ、ということだ。それでこそ、完全な神の子供であり、その人が天国に入れる「偉い人」なのだ。

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