預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇109(キリストへの呪いが自分に返って来る)

 新約では「迫害する者を祝福するべきであって、呪ってはいけない」(ローマ12:14)と教えられているのだが、この詩は強烈な「敵に対する呪いの言葉」が大半(6~20節)を占めている。それは果たして、許されるのだろうか。余程の敵なら仕方ないということなのだろうか。


 いや、呪いは決して、良いものではない。しかし、ある場合においては仕方ないことがある。例えば、律法の中には「必ず殺されなければならない」という神の命令が沢山出て来る(それゆえに「神が殺人を命じる」と誤解されているのだが)。


 確かに「殺せ」という命令はある。ただし、それは「人をさらった」とか「死なせた」とかの場合だ。つまり、罪に対する裁きとしての死刑の宣告なのであって、殺人とは違う「神が殺人を命じる」などと考えるべきではない。何しろ神は「殺してはならない」と定められたお方であって、ご自身で「殺人」など「悪に誘惑されることの無い方」(ヤコブ1:13)であるのだから。


 同じように呪いも、本来は呪うべきではないのだが、神の裁きとしての呪いを受けざるを得ない存在があるのだ。


 裁かれてしかるべき、それは「反キリスト的存在」である。その象徴的なユダのことが8節で預言されている(使徒1:20で指摘)。そして6節の「なじる者」は、ヘブル語では「サタン」であり、「サタンが彼の右に立つようして」とは、裁きの座でサタンと同列に立つ者として悪者が裁かれるようにということを意味する。


 結局、この詩の呪い、それは「キリストの愛に敵対した(5節)イスラエルへの裁き」なのである。17節にある通り、キリストを呪ったから、それが自分に返って来たということだ。そして、最後の裁きのときには、全ての背く者にも、この呪いは成就することになる。


 それでも、この詩は賛歌だ。21~26節に、キリストを代弁しての復活の希望が語られ、「そのことによって主こそ神であることが証しされますように」と27節に続く。
 それでも信じない者は信じない(28~29節)。しかし、主は信じる者の右に立って下さり、サタンの告発から救って下さる(30~31節)。この神の救いの御業をほめたたえよう。そして、主こそ神であることを人々が知りますようにと祈ろう。

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