預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

本当の「世の終わり」(マタイ24:15~27)

24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)
24:16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。
24:17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。
24:18 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。
24:19 だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。
24:20 ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。
24:21 そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。
24:22 もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。
24:23 そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。
24:24 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。
24:25 さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。
24:26 だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。
24:27 人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。



 マタイ24章は、世の終わりについてだな、という印象を持つだろう。少なくとも私達は、携挙、再臨、新天新地……を夢物語のように考えてはならないし、むしろ、そこにこそ希望があると聖書は教える。


 だが『その日、悲惨なのは』と主は言われた。だから『冬や安息日にならぬよう祈れ』と。そうでないと困ったことになるからだ。最も困るのは、『その時、人々は、あなた方を苦しい目に会わせ、殺します』という言葉だ。私達はそれを経験しなければならないのだろうか


 ルカの並行記事によれば、実はそれは、エルサレム滅亡(AD70に成就。143日間で60万人が殺された)についての預言であることが分かる。勿論、それを主が語られた時点では「未来のこと」であるが、それをあとで書き記した(マタイは、AD80後半に書いたと言われている)のであり、もはや過去のことであったのだ。だから誤解しないように、あえて「読者はよく読みとるように」と注意書きしているのだろう。


 いずれにしても、それで全てが納得がいく。例えば、何故、冬だと困るのか。それは、その地方は冬は雨季で谷を渡れないからだ。安息日は、エルサレムの門が閉ざされるので逃げられないからだ。一刻を争う緊急事態において、身重の女性や乳飲み子を抱えた女性は逃げ遅れてしまうので、悲惨なのだ。いずれも今の時代には当てはまらない。


 問題は『これらの苦難の日エルサレム滅亡に続いて』起こる「本当の世の終わり」(マタイ24:29~)だ。その日がいつかは誰も知らないのだから、「分かった」と言うのは偽りだ。ただ、いつ来てもいいように備えておくことが大切なのだ。


 そのたとえ話として主は語られた(24:45~51)。結論は、泣いて歯ぎしりするのは「(同じ主人に仕えている身内である)しもべ」だということ。それも「しもべ達の世話を任されたしもべ」なのだ。だから、そのような立場の者(牧師・伝道者)は、きちんと食事(純粋なバランスのとれた御言葉の糧)を与えなければならない。それによってクリスチャンの信仰が成長し、救いを完成させる為だ。


 たとえそれが「耳の痛い話」であっても語るべきことがある。何が本当の聖書の教えか……惑わされないように身を慎み、目を覚まして、悪魔のたくらみに対して立ち向かおう。

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