預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

真実なのに…(マタイ26:47~56)

26:47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。
26:48 イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ。」と言っておいた。
26:49 それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で。」と言って、口づけした。
26:50 イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕えた。
26:51 すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。
26:52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
26:53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。
26:54 だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」
26:55 そのとき、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。
26:56 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった



 聖書の預言が成就する、すなわち、聖書は真実だということを聞いて弟子達はみな逃げてしまった。真実だからといって、それを受け止めることは決して容易くはない。祭司長達も、自分の目で奇跡を見、イエスの教えに驚嘆していたにも関わらず、イエスを認めなかった。
 そして彼らは、イエスを『言葉の罠にかけ』『騙して』捕えようとした。しかし何故か、計画に反して、力づく(武力)で捕えた。それが上掲の聖書の箇所である。


 さすがの主イエスも「それはおかしい」と言うかのように憤られた。更におかしいのは、そうまでして力づくで捕えたのちも、彼らは依然としてイエスを言葉の罠にかけようとあがき、偽証を連ねるのである。が、主は、それらの偽証には一切反論しない。


 ただ、大祭司には返答をされた。それは、彼が自分でも知らずに、預言者として神の働きを進めていた(ヨハネ11:49~52参照)からだ。それに対し、祭司長達の偽証に反論しなかったのは、彼らが自分でも知らずにサタンの働きを進めていたからである。その働きとは、イエスを罠にかけて殺す(つまり「不幸な犠牲者」に仕立て上げる)ことである。


 主イエスは、あくまでも自ら進んで全人類の罪を背負って十字架で命を犠牲とされたお方である。サタンは、そうさせたくなかった。十字架を「イエスの敗北」にしたかったのだ。その為に用いられた祭司長達は、あえて「言葉の罠にかける」ことにこだわったのである。ゆえに、彼らの企みに乗らない為に主は黙されたのである。


 それでも群衆には言われた。『宮で教えていた時には私を捕えなかったではないか』と。言い換えれば、喜んで教えを聞いていたではないか、ということだ。確かに彼らは、イエスをメシアとして「ホサナ」と叫び喜び迎えた。その「メシアに対する期待」は間違ったものではあったけれども、どうして「イエスはメシア」という信仰さえ失ってしまったのか。そこに主は憤慨しておられる。


 真理の御言葉から離れてはならない。私達は今、喜んで御言葉を聞いているからこそ、だ。世の終わり、人生の終わり(死)も、聖書の言葉通り、いつか必ず来る。御言葉が成就される時が来るのだ。その時に、弟子達のようにではなく、最後まで主と共にいる者であろう。

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