預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇110(主は私の主に言う…って?)

 ソロモンが王位に就く時に父ダビデが歌ったとされている。つまり、息子を王国の君主(私の主)と認めた上で、その君主に、主なる神が仰せられるということだ。要は、息子を(あなたの王国は安泰だと)祝福しているのである。


 そこまでなら、単なる親バカと言えなくもない。しかし、この1節は、新約で何度も語られている通り、キリストのことだ。そう、これはメシア詩篇(預言書)なのである。必然的に「あなた」とはキリストのことになる。つまり、ソロモンへの祝福という形をとったキリストへの祝福(キリストこそ永遠の支配者)だということだ。


 ゆえに3節は軍隊のことではない。キリストが栄光を帯びて力を現わすとき(2行目)、すなわち、永遠の御国が始まるとき(3行目)、そのとき、とこしえの祭司なるキリストを王として神の民が喜び迎える、というのが1行目であり、それは永遠に変わらない(キリストこそ神の民にとってメルキゼデク)というのが4節だ。


 問題は「裁かれ滅びる敵の王達」(5~6節)とは誰のことなのかだ。大前提として、滅ぼされるのは「神に敵対する者」である。代表がサタンだ。しかし「王達」だから、それは「自分を王とする人間=神を第一としない(神の支配を拒む)人間」だと言える。


 マタイ13章にある通り、毒麦は「御国から取り集め」られる。つまり、教会の中に毒麦(偽りの教え、現世御利益を求める信仰等)が蒔かれ育っているということなのである。それが、すなわち「神の支配を拒む(自分を王とする)」ということなのだ。霊的な戦いである。


 その戦いの末の勝利と安息、それが7節だ。誰がその安息に入るのか。それは「主(ダビデにとってソロモン)」だが、彼はイスラエルの代表であり、イスラエルは神の民のモデルだ。だから預言的には「キリストに留まる神の民」が安息に入るということだ。


 それは勿論、新約(ヘブル4:1~2)に教えられている通りであり、中には安息に入れない者もいるのだ。そうならないように「努めよう」とヘブル4:11が言う通り、キリストの教え(その真実)に留まることが大切なのである。


 同じ信じるにしても、その信仰の持ち方には大きな違いが出る。神はその心を判別する。キリストに留まって勝利と安息を得よう。

×

非ログインユーザーとして返信する