預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇111(一番大事なこと)

111:1 ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝しよう。直ぐな人のつどいと集会において。
111:2 主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。
111:3 そのみわざは尊厳と威光。その義は永遠に堅く立つ。
111:4 主は、その奇しいわざを記念とされた。主は情け深く、あわれみ深く、
111:5 主を恐れる者に食べ物を与え、その契約をとこしえに覚えておられる。
111:6 異邦の民のゆずりの地を、ご自分の民に与え、彼らに、そのみわざの力を告げ知らせられた。
111:7 御手のわざは真実、公正、そのすべての戒めは確かである。
111:8 それらは世々限りなく保たれ、まことと正しさをもって行なわれる。
111:9 主は、御民に贖いを送り、ご自分の契約をとこしえに定められた。主の御名は聖であり、おそれおおい。
111:10 主を恐れることは、知恵の初め。これを行なう人はみな、良い明察を得る。主の誉れは永遠に堅く立つ。



 「主を恐れる」という一番大事なことを覚えさせる為の詩である。
 少なくとも、主を恐れるとは、怖がる(故に逃げ、避け、隠れる)ことではない。神は、アダムの時からずっと、逃げるな、隠れるな、帰って来い、と語りかけているのだから、主を恐れるなら、結果的に、神の元に戻り、神の前に出るのだ。そして必然的なこととして、神を崇め感謝し礼拝しよう(すなわち、主を恐れよう)というのが1節だ。


 主の偉大な御業を知れば主を恐れるようになるというのが2~3節。特に「出エジプト」だ。それを忘れないようにと記念とされた(4節)。
 出エジプトは、聖書理解の最大の鍵の一つだ。そこに何もかも(奴隷と解放、過ぎ越しと十字架、律法と救い、約束の地)が含まれている。幾重にも「忘れてはいけない」ことである


 続く5節で「主を恐れる者に食べ物を与え」とあるが、これはマナのことではない。イスラエルは神を信頼せず、安息日にもマナを集めようとした。つまり、主を恐れていなかったのである。それでも神は40年に渡ってイスラエルを養われたが、それは、神は全ての人に太陽・空気・水を与えて下さるお方だということなのである
 5節、それは「十分の一をみなしご達の食料とせよ。そうすれば祝福する」という契約(申命記26章)のことだ。イスラエルはその契約を守らなかった(主を恐れなかった)。だが神は「その契約をとこしえに覚えておられる」。ゆえに神は「神との契約を捨てるな」とイスラエルを責めた、それがマラキ3章なのであって、それを「十分の一を捧げない者は泥棒」と言うのは、神を恐れぬ論理の捻じ曲げだ。


 6節は、悪く言えば、侵略だということになる。だが新共同訳では「諸国の嗣業をご自分の民に与える」である(嗣業とは「神から受け継いだもの」という意味の聖書用語であり、日本語の辞書には無い)。要するには「神の国の全てを神の子が相続する」ということだ。その御業は真実・絶対というのが7~9節である。ただし、それを受け継ぐのは本物の神の民(神を恐れる人)だ。主を恐れず、信頼もしなかったイスラエルが受け継ぐのではない。
 私達は、神への正しい信頼をもって、御国を受け継ぐ者となろう。

×

非ログインユーザーとして返信する