預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇112(全自動?)

 主を恐れる人の幸いを覚えさせるためのアルファベット詩であるが、問題は「その人の子孫は地上で力ある者となる」だ。普通は「主を恐れるその人」が幸いになるはずだが、何故「その人の子孫は」なのか。


 勿論、子供が祝福されることは親にとっては喜びだ。信仰の継承ということも期待出来る。しかし、祭司エリの二人の息子は「よこしまな者で主を知らず」罪深い人生を送った。ダビデの子孫も、王国を分裂させ堕落に導いた。主を恐れる人の子孫は自動的に幸い、ではない


 よくよく読んでみると「その人」について、この詩は何と言うか。「彼の義は永遠に堅く立つ」とか「彼は決して揺るがされない」とか、いくら主を恐れる者とは言え、少し言い過ぎではないかと思える。私達は、そこまで立派だろうか。確かに、信仰によって支えられはするけれども、例えば重病のときなど、心が騒ぐだろう。
 極めつけは「その角は栄光の内に高く上げられる」だ。これは、十字架と復活ののちに天に上り、栄光の御座につかれたキリストでなくて誰だろう。だからこそ「悪者はそれを見て苛立ち歯ぎしりして溶け去る」(10節)のだ。


 そう、「その人」とは「主を恐れる人(信仰者)」のことではなく、キリストなのだ。そうであれば「繁栄と富はその家にあり」(3節)というのも納得出来る。神の国だ。そして「その人の子孫は地上で力ある者となる」というのは「キリストを信じて生まれた神の子供が、地上で生きる力を得る」ということになるのである。それなら何の不思議も無い。「主を恐れることの大切さ」を覚えた「直ぐな人たち」は、感謝と賛美、喜びという、信仰者にとっての本当の繁栄を味わうのだ。


 その様な「直ぐな人たち」のために主は「光を闇の中に輝かす」(4節)。つまり「暗闇の世の中に生きていても光を見失わない」のだ。それが「主を恐れる者の幸い」なのである。
 決して、主を恐れる者は金持ちになるとか、子孫も祝福されるというようなことではない。むしろ、それは本当には主を恐れていないのだということを詩篇111は教えていた。そして、続く112篇が覚えさせたいことは「主を恐れる者は、この闇の中でも光を見失わない」ということなのである。何故なら「主は情け深く、憐れみ深く、正しくあられる」(4節)からだ。

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