預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇113(今から?)

 主をほめよ(1~4節)である。しかし「とこしえまで」と言うのはいいが、何故「今より」(2節)なのか。「とこしえからとこしえまで」主はほめられるべきではないのだろうか


 「今」…それがいつにせよ「今から」ということは、そこに何かの境目がある。何かが大きく変わった(以前とは違う)区切りということだ。例えば結婚。それまでも共に生きて来た(交際して来た)が、今からはこの人と生きて行くという区切りだ。あるいは洗礼式。その日になって突然信じたわけではなく、既に信じていた。が、今からは神の子として生きて行くという大きな境目だ。


 同じようなことが聖書においても言える。出エジプトだ。それ以前も、神は神(イスラエルの神)であった。しかし、出エジプトという救いの業が記念とされてから何かが大きく変わった。それは「イスラエルを神の民とし、神がイスラエルの神となる」(出エジプト6:5~7)ということだ。勿論、それまでも、そうだったが、出エジプトを境に「今からは」と、改めて、区切りとして、定められたのである。


 だから詩篇113:5~6は、「主は民の叫びを聞かれた」ということであり、出エジプトのことなのである。


 「今より、とこしえまで」…見落としがちではあるが、ここから真実を掘り出そう。出エジプトとは、記念であって、忘れてはいけない。それは、キリストによる救いを表しているからだ。


 「今より、とこしえまで」…人生に悩み苦しむ人の、心の叫びを聞いて、憐れんで救って下さった、その時から、神はとこしえに(その、救われた人の口によって)ほめたたえられるべきなのだ。
 弱い者を埋もれていたちりから引き起こし、惨めな者をあくたから引き揚げて下さり解放して下った(7~8節)、それが出エジプトであり、キリストによる救いなのだ。
 そして、不妊は神の呪いと考えられたいた、そんな理不尽な哀しみが多い人生を喜びの人生に変えて下さる(9節)、それが主の偉大な救いの御業なのである。それは真の神以外には出来ない。それを私達は体験した。その時からとこしえまで主をほめよ、と詩人は言う。救いの恵みを覚えて、とこしえに主をほめよう。

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