預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇115(彼らとは誰ら)

詩篇本文は、ご自分の聖書にてご確認ください


 一見、信仰的な詩のように思える。が、何か違和感がある。


 まず1節は、イスラエルの謙遜から出た言葉なのではなく、詩人による(イスラエルが律法主義をやめますようにという)執り成しの祈りだ。
 律法主義は、自分の力で自分を救おうとするその点で偶像崇拝=自分の作った神が自分を救う=と同じすなわち真の神を信頼していないのであり、2節でそれを指摘している)わけで、言わば、栄光を自分のものとすることである。だから2~8節は、偶像崇拝者への非難でありつつ、同時にイスラエルの律法主義への批判なのである。


 ゆえに「主に信頼せよ」と訴えるのが9~11節だが、問題は「彼ら」だ。主が「イスラエルの助け」であるなら「我ら」とすべきだろうに。


 順を追おう。12節は、バビロン捕囚からの解放であり、主の助けだ。しかし、そもそもバビロン捕囚は、神に信頼しない故の裁きであって、それをきっかけにイスラエル離散が始まり、やがて国を失い、遂にはローマに支配され、約束の救い主を拒むのである。それをパウロは「不信仰の故に折られた」と言っている。だから14~15節は祝福ではなく、国を失い離散するイスラエルへの憐れみなのだ。


 結局「彼ら」とはイスラエルではない。むしろイスラエルに対して「彼らのようになれ」と言っている、それが9~10節だ。主は「彼ら神に信頼する者達」の助け・盾であると。つまり、イスラエルは信仰的でもなく謙遜でもない、と指摘するこの詩から受け取るべきメッセージ、それは、イスラエルの様であってはいけないということだ。


 地上の人生は神の賜物・恵みだ(16節)。が、神を信頼せず滅ぶなら恵みは無駄となる。だから、命ある内に神への信頼を確かにする必要がある、と言うのが17節。そして「私達こそ、主をたたえよう」と18節。神に信頼する者だからこそ、主をたたえるべきなのだ。


 神に信頼しない(自分で自分を救える)、それが律法主義であり、偶像崇拝だ。それは栄光を自分のものとすることである。
 しかし、栄光は主のもの、救いは主から来る。たとえ何が起きても、主に信頼する者は救われる。だから、主に信頼して、主を崇めて、とこしえまで主と共に生きる者となろう。

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