預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇119 その①(1~16節)

 22文字あるヘブル語のアルファベット、それぞれを頭文字として各8節ずつ、計176節で構成されている詩であり、詩篇中、最長の詩である。ゆえに解説には骨が折れるが、全体としては「神の言葉を愛する」というテーマが貫かれた詩である。


 1~2節は、詩篇1篇と似て「主の教えを喜びとする」人々は幸いだと言う。そして彼らは「不正を行わない」と。しかし問題は「不正」とは何かだ。一般的には、泥棒、詐欺、横領などなどがそれに当たる。だが聖書は道徳の本ではない。「天国への道」を教える本であり、どの道が天国への「正しい道」かを示す、それが聖書の最大の目的だ。必然的に聖書において「不正」とは、その逆。「滅びの道へと誘う」「偽りの教えに導く」こと、それが不正なのである。


 だから、本当に御言葉を愛するなら、偽りから離れて主の道を歩むはずであり、それが幸いな者だということだ。それを「堅く守るべき」と、神は戒めを与えた。そうすれば、神の裁きの座においても恥じることが無い、というのが3~6節。そのようにして自らの歩みを聖める(偽りから分離する)ようにというのが9節。そして、的(目標)である天国への道を踏み外さないように真実な御言葉を蓄えるべきというのが10~11節である。


 そこで詩人は「神の掟を教えて」と言う。まさかイスラエル人が聖書を知らないはずは無い。しかし、知ってても分かってないということはある。事実彼らは律法の目的(キリストへ導く為の養育係だということ)を分かっていなかった。同じようにクリスチャンも聖書を知っていても分かってないということが有り得る。だから「教えて」と求めるべきで、悟ったなら、それを語り伝えるというのが12~13節だ。


 ただ、受け入れられるかどうかは分からない。主が語る真実さえ拒まれたほどだ。しかし、真理は自由と喜びをもたらす。それ故に、真実な御言葉を慕い求める、それが「幸いな人」なのだ(14~16節)。


 神の全ての戒めに照らされる(裁きの)ときが来る。そのときに、恐れおののき恥じ入ることの無いように、主の御教えを教え悟らせて下さいと、私達も祈り求めよう。

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