預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇119 その③(25~40節)

 魂がちりに打ち伏すほど絶望的な状況にあって詩人は「御言葉によって命を得させて(新共同訳)」と言う。口語訳では「生き返らせて」だ。たとえ死んでも生き返るということだろうか。いや、絶望的な状況にあるのは、肉の命ではなく、魂だ。ちりに打ち伏して(死にかけて)いる魂も、御言葉によって命を得ることが出来る、と聖書は教えるのであり「その教えの通りに私を生かして」と詩人は言うのである。


 そして更に、「神の戒めの道を悟らせて下さい」と詩人は願う。死にかけた魂が命を得る為には、その道を通らなければならないのだ。


 では、それはどんな道なのか。神の戒めの道を行くということは、要は「神に従う」ということであろうが、神に従って生きる道はどこに至る道なのか。それは勿論、天国に至る道である。決して、地上のご利益・悦楽に向かうのではない。その道を神は備えた、それが聖書である。そして、それこそが「神の奇しいわざ」なのであり「そこに思いを潜めることが出来るように」悟らせて下さいと詩人は願うのだ。


 ということは、詩人はまだ悟れていない、ゆえに嘆く(28節)。何故、聖書(天国への道を備えた神の奇しいわざ)を悟れないのか。それは、偽りの中にいるからだ(29節)。神の真実と共に、偽りも依然として滅びることなく強力に働いている。だから問題は、どちらを選び取るか、だ。勿論、聖書は「あなたは命を選べ」と迫る。そこで詩人は「どうか真実を選び取らせて下さい」と繰り返して言う(30~38節)。


 結論的には39節。詩人は、どんな「そしり」を恐れているのか。答えは文脈から自ずと導き出される。詩人が恐れること、それは「悟れずに魂が滅びてしまうこと」だ。その最悪の事態に陥った者への厳しい言葉=「あなたは真理の道を歩まず、偽りから離れなかった愚か者だ」という「そしり」を受けるのを恐れているのである。当然だろう。それは「滅びの宣告」を受けることに等しいのだから。


 ゆえに詩人は「戒めによって生かして下さい」(40節)と繰り返す。聖書が教えている通り、魂は御言葉によって命を得、天国の希望と喜びへと導かれるのだ。
 その救いの御業を悟って、真実の道を選び取って、歩み続けよう。

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