預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇119 その④(41~48節)

 神の恵みと救いが私に実現しますように、と詩人は言う。それは、どの様にもたらされるのか。「御言葉の通りに」だ。つまり、行いではなく信仰によって救いはもたらされるということであり、それを約束している御言葉を、詩人は愛するのである。その様にして、信仰による救いを確信することによって敵対する者の「そしり」に打ち勝つようになる(それが「御言葉の通り」である)のだ。


 その確信(御言葉への信頼)を奪い取ろうとする敵から守られるようにと詩人は願う。そして、神の裁きをも待ち望む、と。裁きは、必ずしも滅びを意味しない。むしろ、信仰者にとって裁きは「救い」のときである。そして、それが希望であり、暗闇の世を歩むための足の光だ。その希望が無いまま戒めを守ったところで何の意味があろう。救い(天国の希望)があってこそ、主の道を歩むことに意味がある。戒めは喜びとなり、地上での歩みを支えるものとなるのだ。


 「そうして私は広やかに歩いて行く」(45節)とは、広い道を行くことではない。神の戒めを守ってこそ「自由に歩める」(口語訳)ということだ。自由は、ルールがあってこそ成り立つ。だから主は言われた。どうしても必要なことは一つだと。神の御言葉・戒め抜きでは人生は秩序の無い荒れ果てたものとなってしまうのである。


 そして、神の戒めを基準にするからこそ、相手がたとえ王であれ、預言者ナタンの様に正義を語ることが出来る。もし王の怒りを買って(バプテスマのヨハネの様に)殺されたとしても、それは恥とはならない(46節)。それ程に、御言葉を喜び愛しているのだと47節。


 最後に「御言葉に手を差し伸べる」とは、神が人の助けを必要としているということではない。御言葉に向かって手を高く上げます(新共同訳)ということ(つまり、御言葉を礼拝します)ということだ。「言葉は神であった」と言われる主イエスへの礼拝となる、それが御言葉を愛するということなのである。


 神を愛するとは神の命令を守ること(Ⅰヨハネ5:3)とあるように、御言葉を愛す(大切に扱う)ことが神への愛なのである。それゆえ、純粋な教えを守れ、真理を求めよ、と聖書は言う。自由を得るために。

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