預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇119 その⑦(65~72節)

 詩人は「神の戒めを学んで守ること、それが幸いだ」と言う。そればかりか、苦しみに会ったことも幸いだ、と
 しかし、だからと言って「そうだ、苦しみも幸いだ」「苦しみも神の賜物だ」「苦しみを受け入れ、感謝し、喜ぼう」と言うのが正しいのだろうか。自分が、そう思うのはいいが、それを他人に押し付けるのはいかがなものか。「信仰による人間疎外」を生みかねない。


 詩人が「苦しみに会ったことは幸いでした」と言う理由は、神の掟を学んだからだ。そのような結果に至ってこそ、苦しんだことが益となるというものである。例えば、病気をきっかけにキリストを信じた、とか。
 しかし、ここで詩人が言う「苦しみ」は、病などのことではない。と言うのは、彼は、苦しみに会う前は的外れをしていた(67節)。それで苦しみに会ったということは、その苦しみとは「神に懲らしめられた」ことを指しているのである。何故なら、その「苦しみ」の結果、神に従うようになったのだからだ。それを幸いだと言っているのである。主が教え、戒め、責め、悔い改めに導いて下さること、それが、ここで言う「主の良くして下さること」「主の慈しみ」「幸い」なのである。


 それゆえ詩人は、御言葉を愛し、求める。そうする必要がある。偽りが蔓延っているからだ。69節から察するに、詩人も一度は偽りに染まってしまったようだが、彼は、心を尽くして純粋な御言葉を守ろうと決心した。一方、偽りから離れない人々の心は「脂肪のように鈍感」(70節)と表現されている。多くの人は広い道を行くのだ。


 主に戒められ苦しんだからこそ詩人は、純粋な御教えを喜び、守る心へと変わることが出来た。だから「苦しみに会ったことは幸い」だと言えるのである。 決して、人生の苦しみ全てが幸いだと言うのではない。病、問題、悩みの時に、「幸いだと思わなきゃ」と自らを追い込む必要は無い。キリストを信じた者にとって幸いなのは「神の懲らしめ」なのである。何故なら、神は愛する子を懲らしめるからだ(ヘブル12章)。正しい道に歩ませるため、天国を得させるために。


 神の教えは幾千の金銀にも優る(72節)。その様な思いへと心が変えられるようにと、主に求めよう。

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