詩編130(都上りの歌⑪)
主は「イスラエルを贖い出される」(8節)。
そう、確かに。但し、それは肉のイスラエル人の事ではない。バプテスマのヨハネは言った。神は、この石ころからでもイスラエルを起こす事が出来ると。信仰によって起こされた真のイスラエルこそが救われるのである。
その点、イスラエル人は不信仰ですぐ偶像に走った。主を待たなかったのだ。主を待ち望めば恵みがあり贖いがあるのにだ(7節)。
これが型だ。つまり、どうしたら救われるのか、滅びる原因は何なのか、それを示す為にモデル・見本として選ばれた、それがイスラエル人なのである。それを見て「天国への道」を学べという事だ。すなわち、悔い改めてキリストを信じるなら誰でも救われるという事である。それはイスラエル人も同じだ。決して除外されてはいない。むしろ初めから真の神を知っているという優位性がある。なのに悔い改めない、それが大問題なのだ。それゆえ詩人は言う。「イスラエルよ。主を待て」と。
とにかく詩人は願う(1~2節)。それも「深い淵から」。言わば絶望的な場所(主を待ち望まないイスラエル人=神との断絶・死んだような状態)の中に居るという事だ。勿論、詩人は主を待ち望む(5~6節)のだが、それは「夜回りが夜明けを待つのに優って」だと言う。夜回りの期待、それは朝が来る事だ。その期待は裏切られる事は無いだろう。生きる限り朝は来る。それに優って待ち望むもの、それは希望の朝・御国につく朝だ。それは、主を待ち望む者である限り必ず来る。
結局、詩人の願いは何か。朝は、いつか来なくなる。例えば死や世の終わりが来たら。同じく、信仰者も、主を待つのをやめてしまえば、その人に希望の朝・御国につく朝は訪れなくなる。そんな、危うい「深い淵」のような所から願うこと、それは「主よ、来て下さい」だろう。何しろ、主を待っているのだから。夜回りの希望に優る希望(携挙~救いの完成~天の都に入る希望)を持って。
だから「主を待て」と聖書は言う。つまり、主を待たなかったイスラエル人のようになるな、という事である。私達も詩人のように「主よ、来て下さい」と願いながら待ち望もう。深い淵のような地上だからこそだ。そのようにして、天の都に上るように、という歌である。