預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇24

 契約の箱(神の臨在の象徴)が王宮に運び入れられた時の歌だと言われる。しかし、創造主なる神は、箱などに収まるようなお方ではないと、この詩は表明するのである。逆に、クリスチャンの体が聖霊なる神の宮であると聖書は言う。その集まる所に主も臨在される。まさに、エクレシア(召し出された者の群れ)である教会が神の家なのだ。
 さて、続いて「誰が神の前に立つことが出来るだろうか」と詩人は問う。それは『手がきよく、心がきよらかなもの……』だ。果たして、そのような人がいるだろうか。いや、人はみな罪人だと聖書は言う。そして、罪人は神の前に立ちおうすことが出来ないと。しかし、その罪人を赦し、聖め、救うために主イエスは十字架にかかられた。その時、神殿の至聖所の幕が裂けた。十字架によって、信じる者が、神の前に立てるようになったということだ。だから、私達は実際には「心がきよらか」とは言えない者であるが、信仰によって「きよらかな者」とみなされるということなのである。『その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける』。罪のない者として救われるのだ。「これこそヤコブである」との宣言が続く。ヤコブ(のちにイスラエルと改名)からイスラエル民族が生まれるのだが、『肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされる』(ローマ9:8)とある通り、神の約束を信じて生まれた神の子(クリスチャン)、それが真のイスラエルだ。そして、それは『神を求める者の一族』だというのである。「神に何かを求める」のは良いことだが、「神を求める」信仰がなくては神には喜ばれない(ヘブル11:6)のである。神を求める者、これこそヤコブ(真のイスラエル)である。
 では、神を求める者への報いは何か、それは神の国だ(ヘブル11章参照)。すなわち、神を求めるとは、神の国(神の支配)を求めるということである。だから「神の国を第一に求める」とは、神に支配されたいという願いを自らの第一の願いとすることであり、それが幸せへの近道なのである。何故なら、神の支配する所には、争いも悲しみも苦しみもないからだ。そのような神の支配を求める、これこそイスラエルだ。私達は、神の子として、そのような生き方をしよう。

詩篇23

 主イエスが私の羊飼い。だから安心、安全、乏しいことがない。確かに。だが、たとえ死の陰の谷を歩くこと(絶体絶命というような状況)があっても恐れないと、私達は言えるだろうか。いや、高い所から落ちそうな時、恐怖を感じるのが普通ではないだろうか。そう、ここで聖書が言う『恐れない』のは『わざわいを』であって、死の陰の谷なんか怖くないと言っているのではないのである。つまり「死」というものに対して、多少の不安や恐れを感じたとしても、死後どうなるか(消滅するのか、地獄に落ちるのかという、そのような「わざわい」)を恐れない、それが神の羊・クリスチャンだということである。何故なら、死後は天国と決まっている(主が共におられる)からだ。
 そして、良い羊飼いは、その鞭と杖で獣を追い払ってくれる。だから、鞭と杖(神の「純粋な信仰を守れ」という厳しさ)が『私の慰め』なのである。事実、クリスチャンの敵である悪魔と異端の教え(私達を神から引き離そうとするもの)は常に私達を取り巻いている。しかし恐れることはない。悪霊に怯えて臨戦体制を取る必要もない。その敵の前でも主は私達に「食事」という楽しみを与えてくれる。つまり、ごく普通に人生を楽しみ喜ばせて下さるということだ。
 次に『いつくしみと恵みとが、私を追って来る』というのだが、すると「私」は逃げているのだろうか? 神から? それは良くない。「もっと恵みが追いかけて来るために、もっと逃げよう」と言うのは「恵みが増し加わるために、もっと罪を犯そう」と言うのと同じだ。それは有り得ない、新しい歩みをするべきだ、とパウロは断言する(ローマ6章)。新しい歩み、それは「主と共に生きる」ということだ。救われる前とは逆の歩み、それが「いつまでも主の家に住まう」ということ、そうである限りは、恵みが……ということなのである。
 私達は、神の子供。同時に、神の羊、神のしもべ、であり続けよう。それが「いつまでも神の家に住まう」ことが出来る者なのだから。そうすれば、いつくしみと恵みとが追い迫ってくる。隙間もないほどに、恵みのがんじがらめだ。そのようにして、いつまでも主の家に住む幸いを喜ぶ1年としよう。

詩篇22(クリスマスのメッセージ)

 主の受難を預言した「十字架の詩篇」である。その預言の通り、主は十字架の上で『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』と叫ばれた。本当なら、罪ある人間である私達が神から見捨てられるべきなのに、御子が代わりに見捨てられて下さった。信じる者の罪を赦すためだ。その為に(見捨てられて死ぬ為に)この世に来られた、それがクリスマスである。しかも、それは最初から決まっていたことである。救いの計画はアダムとエバが罪を犯した直後から始まっている。ゆえに父なる神は、御子を世に遣わす時点で既に御子を見殺しにする覚悟をしていたわけだ。神は、そこまでして救い主を送って下さった。だから、クリスマスは単に「誕生の喜び」なのではない。「見捨てられて死ぬことを承知の上で、それでも、人間を救う為に来て下さったことの喜び」なのだ。
 ところが、21節には『私を救ってください』という願いの後に『あなたは私に答えてくださいます』とある。見殺しにする計画だったはずであるのに、だ。どういうことか。それは、復活のことを言っているのである。復活(永遠の命の約束)こそが本当の救いであり、それを与える為に、あえて十字架の時には救わなかった(見捨てた)ということだ。例えば、ステパノが殺される時も、神は沈黙した。何故か。それは、ステパノを天に召す為なのである。それが全ての解決だからだ。ゆえに、神の御心に従っているのになお苦しみにあっている人々は『真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい』(Ⅰペテロ4:19)と聖書は言う。神は、必ず答えてくれる(永遠の命、新しい体が与えられる)からである。ゆえに詩篇22の後半は「喜びの賛美」となっている。『主を恐れる人々よ。主を賛美せよ』と。
 神は答えてくれる。神の約束は必ず実現するのだ。その証明、それがクリスマスである。初めからの計画通り、それは実現した。救い主は来たのだ。それも、御自身が見捨てられることを承知で、それでも来て下さったのだ。それほどに「永遠の命」という神の約束は必ず実現するということの証拠なのだ。だから、このクリスマスに、神の約束(永遠の命)こそが最高だ、という生き方をする決心をしよう。

詩篇21

 20篇において、神の民は王の為に祈り歌った。その祈りに神が答えて下さったゆえ王は勝利を取れた。その感謝の歌、それが21篇だとされている。すなわち、これは王の王キリストの勝利の歌なのである。
 ただ8節以降は神の裁きが記されている。神を憎む敵共を一人残らず見つけ出し地獄の炎で焼く、と。それは未信者のことではない。未信者は、神を知らないだけ(それが「的外れ・罪」なのであるけれども)であって、知らないがゆえに憎みもしないのであるのだから。神を憎み敵対しているのはサタンとそのしもべ共だ。加えて『彼らのすえを滅ぼ』すと10節にあるが、『彼らのすえ』とは誰か。主の言葉によれば、律法学者・パリサイ人が『蛇ども、まむしのすえども』(マタイ23:33)と呼ばれている。彼らがサタン共と同罪に扱われる、その重い刑罰は何ゆえか。それは「人々から天国をさえぎり、入ろうとしている人をも入らせない」(マタイ23:13)からだ。自らが天国に入れないだけならまだしも、他の人をも天国に入らせない、それは非常に罪深いことだと言わざるを得ない。
 では、更に同じ10節の最後に出て来る『彼らの子孫』とは誰か。この場合の『彼ら』は誰を指すのか、それは「サタン共」ではなく「そのすえ」である律法学者達だ。律法学者達の子孫、つまり、今も生き残っている「律法主義者達」をも滅ぼすということだ。自分も入らず、人をも天国に入らせないのだから罪深い(それは異端も同罪だろう)。
 勿論、彼らが神に対して悪を企てても何も出来はしない。が、神の民に対してはそうではない。惑わし、足をすくい、倒すことが出来る。弟子達もある程度のダメージは受けた。しかし主は『信仰がなくならないように』祈って下さった。そして父なる神は『彼の心の願いをかなえ』(詩篇21:2)て下さった。だから、これはキリストの勝利の歌なのである。キリストの願い(主の御心)は必ず成就するのだ。神に信頼し従う者を神は守って下さる。そしてついには、その全能の力で、私達を栄光の体に変えて下さる。その偉大な御力を崇めよう、と詩は締め括られている。私達も、主の御力がどれ程偉大であるかを知ることが出来るように、主の御力の現れを求めよう。

詩篇20

 聖書は、神から人間(私)へのラブレターだと言われる。確かにそうだ。だが、聖書の言葉を何でもかんでも自分に当てはめていいというわけではない。例えば『主があなたの願いどおりにしてくださいますように』と聖書が私に語りかけているのだから、私の願いが何でも叶うはずだ、と考えてはならないのである。何故なら、御心に適う願いだけが叶うと聖書は教えているからだ。
 表題にある「ダビデの賛歌」は「ダビデのための賛歌」とも訳せる通り、他の誰かがダビデのために書いた、という場合もある。この20篇はそれだ。つまり、『苦難の日に、主があなたにお答えになりますように』という「あなた」は、「王様」のことなのだ。そして、その祈りの通りに、神はダビデを助け、勝利を与えたのである。だが、そうすると、ダビデの願い(バテ・シェバとの姦淫)が叶い、はかりごと(その夫ウリヤ殺害)が成し遂げられたのも、神がして下さったからか。いや、神はそれを、ダビデの罪として責めた。だから『主があなた(王)の願いどおりにしてください』という民の祈りは、実は、王の王キリストについての預言的な歌だったということなのである。
 父なる神は、いつも御子イエスの願い通りにされた。人間のために救いの道を開く、という願い(その為の十字架と復活というはかりごと)を遂げさせて下さったのだ。だから『今こそ私は知る』と、この詩を書いた神の民は言う。主の願い(はかりごと)に父なる神は天から答えてくれる、と。すなわち、信じる者は救われる、ということだ。私達もこの『主の御名を誇ろう』。誇る(ヘブル語の「ザーカル」)は覚えさせる、記録するの意味に使われる。つまり、救い主の名を人々に覚えさせよう、ということだ。信じる者は裁きの時にもまっすぐに立つことができる。だから「キリストこそ救い主!」と誇りをもって。
 そして『王に勝利をお与えください(9節脚注)』と民は祈る。王が勝利を取る、それは、民が平和に暮らせるということだからだ。私達を苦しめる様々な問題に対して、王である主が勝利されたなら、心の中は平和になる。「平和の君」と呼ばれる主の、その願い(はかりごと)を『遂げさせてくださいますように』と祈ろう。