預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇125(都上りの歌⑥)

 エルサレムは山々に取り囲まれた地形ゆえに難攻不落な町であった。それと同じように神は御民を守るという(1~2節)。すると、信仰者は風邪もひかず、事故にも遭わないと? いや、この世にあっては患難がある。それは認めなければならない。問題は、何から守るのかだ。


 根本的に、聖書が教えるのは、天国・救いへの道だ。全ては、そのためのメタファー(隠喩)である。例えば、約束の地はカナンとされるが、本当の約束の地は天国である。そして、エルサレムとは神の国の中心(クリスチャンの心の中)である。ゆえに、エルサレムを守るとは、クリスチャンの信仰を守るということなのだ。


 そこで、何から守るのかだ。それは、偽り・惑わしからである。何故なら、天国に入れるようということこそが聖書の目的だからだ。主は言われた。片手片足を失っても天国に入る方がいい、と。その言葉を本気で受け止めることが必要だ。それが、主への信頼というものである。そんな人を、神は守ると言うのである。


 次に大事なことは、信頼とは何かということだ。何を信じてどう頼るのか。神を信じる、だけならサタンも「神は唯一、全能」と信じている。まして、神がおられることなどは信じるまでもなく事実だ。その上で、神に信頼するとはどういうことか。それは、神の約束は必ず成ると信じて頼ることなのである。それも、聖書の目的に沿って約束されていることを、だ。自分勝手な信頼(例えば、神は必ず病気から守ってくれる、とか)を神に押し付けても、そうはいかないのである。


 聖書の目的である天国・救い、それは、良い人になったら入れると約束されているだろうか。いや、純粋な信仰を守れば入れる、それが約束だ。その約束を信じて頼る、それが神への信頼なのである。


 その信頼が崩されることのないように神の助けが必要である(3~4節)。その助けは、天地を造られた主から来ると言うのが詩篇121だ。しかし、曲がった道にそれる者は取り除かれる(5節)。だから、クリスチャンの心の中・信仰が守られなければならないのである。それが「イスラエルの上に平和があるように」という祈りだ。神との平和・神への正しい信頼が築かれるようにと祈ろう。

詩篇124(都上りの歌⑤)

 この世には2種類の人間がいる。霊的に、神の側に居る人と、そうでない人だ。もし、神に敵対する側に居たら滅びる、というのが2~5節である。だから、もしも神が味方でなかったら、と想像してごらん(1節)と言うのである。神だけは敵に回すべきではない。


 ただ、神が味方とはどういうことか、だ。神の側に居るのか居ないのか、その線引きは何によるのか。たとえクリスチャンでも神に敵対するということが有り得る。拝金主義などがそれだ。


 所が主は言われた。「私達に反対しない者は味方」だと。「イエスは主だ」と言いさえすれば、異端でも仲間だということだろうか。いや聖書は、異端は滅びに至るとはっきり言う。すると、主イエスに反対はしていないけれど仲間ではないということになる。


 他方、信仰に反対はしないが自分は拒否するという人がいる。反対はしていないのだから味方だ。だからと言って、決して救われているわけではない。ただ、チャンスはある。神の敵側に居るよりははるかに。つまり「信者でない夫は妻によって聖められている」(Ⅰコリント7章)というのは、救われているのではなく、聖別されている(神のために取り置きされている)状態であって、信者である妻と共に居る限り、本当に神のものになれるチャンスは豊かにあるということなのだ。ただし問題は、敵の罠(偶像等)に引っ掛かっているということである。


 そこで詩人は言う。「私達は仕掛けられた罠から鳥のように助け出された」(124:7)と。鳥は自力では籠の戸を開けられない。だから私達は、聖霊によって罪・滅びという鳥籠から救い出されたのだ。そのチャンスを掴むには神の側に居る方が有利なのである。


 もう一つ、この詩(2~5節)は「世の終わりの滅亡」を表現している。それは人間の力では逃れられない。外からの力によって助け出されるしかない。それが携挙(鳥のように救い出される時)なのだ。そのとき、もし神が味方でなかったら…、神の側に留まっていなかったら…。


 私達は神の側に留まり続けよう。反対しない(主を信じている)だけでなく、御教えに従う者となろう。そうすれば、世の終わりのときにも、鳥のように助け出されるのだ。

詩篇123(都上りの歌④)

 神の憐み・助けを求める詩人は、嘲りと蔑みでもう一杯だ(4節)と言う。決して命を狙われているわけではないのだが、詩人は追い詰められている。誰にか。安逸を貪る者(新共同訳:平然と生きる者)達、すなわち、神を知っていながら神に逆らって平然と生きる人達にだ。


 律法に従うなら、彼らは「死刑」となる(例:申命記21:18~21)。しかし、箴言20:20~22では、その「悪への報い」をするな、と言う。律法を守っても自らの救いにはならないからだ。だから、むしろ「主を待ち望め」と。そうすれば「主があなたを救われる」と言うのである。その点において詩人は、追い詰められているのだ。つまり、律法に背く者達を裁きたい欲求に飲まれそうになっているのである。


 同様に「高ぶる者達」からもだ。ヘブル語聖書の注釈によれば、それは「高慢な圧迫者」のことだとされる。主が言われたように、彼らは人に重荷を背負わせて自分は指一本触れず、天国に入りたい人を入らせない…民を苦しめる宗教指導者達がそれに当たるだろう。


 さて、そこで。これは「都上りの歌」だ。当時の正しい信仰生活の形として、神に目を向ける(神御自身を求める)ことを表す。そうすれば神は報いて下さるとヘブル書は言う。だから詩人も「神に向かって目を上げる。目を主に向ける。主が憐れまれるまで」と言う(1~2節)。果たして、その「主が憐れまれるとき」は来るのか。必ず来るのか。来る。全ての人に、必ず。それは天の御国に迎え入れられるとき・救いのとき・神の恵みに満たされるときだ。そのときまでずっと、神に目を向け、神を求め続けることが必要なのだ。


 霊的な嘲り・蔑み(=偽り・惑わし・圧迫)は、魂に食い込む。内側から蝕まれるのだ。ゆえに主は言われた。「パリサイ人のパン種に気を付けなさい」と。ほんの少しのパン種が全体にまで膨らむのだ。それが「偽りの教え・曲解された御言葉・曲がった信仰」なのである。決して甘く見てはいけないものなのである。だからこそ、それに比例して、いよいよ主に目を向けることが求められる。


 神が憐れんで下さるとき(永遠の御国に入るとき)は必ず来る。そのときまで、主に向かって、目を上げて、主御自身を求め続けよう。

詩篇122(都上りの歌③)

 「さあ、主の家(エルサレム)に行こう」と人々が言うのを聞いて詩人は喜んだ。何故か。それは、壊れていたエルサレムの町が復興したということだからだ。そう、これはネヘミヤの時代の詩だと言われている。「そうか、ついに、やっと再建したのか」と思って詩人は喜んだのである。それが、この詩を理解するための土台だ。この土台抜きで勝手な解釈をしてはいけない。
 例えば6節「エルサレムの平和のために祈れ」だ。そうだ、イスラエルのために祈ろう、と言われる理由の一つである。これこそ、土台抜きに解釈することの害である。土台に基づけば、これは「エルサレムがもう壊されませんように祈れ」という意味だと理解できるはずだ。それを誤解して、現在のイスラエル共和国(エルサレム)に平和が来るようにと祈るなら、それはどういうことか。エルサレムの平和とは、イスラム教もキリスト教もエルサレムから撤退して、ユダヤ教の神殿が建つことを意味する。その神殿でいけにえを捧げること、それこそがユダヤ人の悲願・平和なのだから。しかし、それは同時に、律法の復活であり、十字架の否定なのである。そうなるようにとクリスチャンが祈るのは大きな過ちだ。


 都上りの歌「さあ、主の家(エルサレム)に行こう」ということは、観光半分の聖地旅行などではない。巡礼は当時の必須であり「正しい信仰生活」の形なのだ。それが壊れていた(霊的に曲がっていた)、信仰的に退廃していたのである。だがようやく復興した(信仰を取り戻した)、正しい意味でのリバイバルだ。だから、もう二度と壊れることのないように祈れ、それがこの詩のメッセージである。
 だが、残念ながら、そのメッセージは届かなかった。エリヤが再来しても、キリストが来られても、イスラエルの信仰は壊れたままだった。そして今も。


 「エルサレム」とは何のことか。それは、地上のどこかのことではない。新しいエルサレム(天の都)の雛形であり、神の国(信者の心の中)の中心である。その平和のために祈るとは、中東ではなく、心の中の神の支配(平和)が壊れないように…ということなのである


 聖書は、天の御国への道を教える本だ。地上のことだけを考えていてはいけない。心の中(神の国・エルサレム)の平和を祈ろう。

詩篇121(都上りの歌②)

 とにかく「神はあなたを守る」ということだ。


 が、そう聞くと「そうか、病気にはならない、事故にも遭わない、貧乏にもならないのだ」と信じたがる人が多いだろう。しかし主が言われた通り「この世にあっては患難がある」のだ。それを受け入れなければ、多くの人が殉教したことの説明がつかない。まさか、その時は神は休みだったと言うのだろうか。確かに、「神は七日目に休んだ」が定説だが、詩人は「まどろむことも眠ることも無い」(4節)と言う。主も「父は今に至るまで働いておられる」と。そう、神は休まない。だからこそ、確実な助けとなり得るのだ。ただし、神が助けるとはどういう意味なのかである。


 そこで、この詩は、都上り(エルサレムに礼拝に行く途上)の歌である。昔の信仰者にとっては、その巡礼こそが正式な礼拝であった。しかし、主の十字架によって万人祭司制が開かれ、誰でもいつでもどこででも礼拝が出来るようになったゆえ、もはや巡礼は不要だ。むしろ、生きること(生活)の全てを通して神を崇めるべきである(ローマ12:1、Ⅰコリント10:31)。そして、天国(新しいエルサレム)に向かっての旅、それが新約時代の信仰者の正式な礼拝生活なのである。


 だから、都上りの歌とは、クリスチャンにとっては、天国への旅路の歌なのであり、それは「行ったり来たり」するものではない(8節は交通安全の約束などではない)、行きだけ(一方通行)なのである。だが、それが難しい。狭い道なのである。惑わしや敵の攻撃もある。だから、神の助けが必要なのだ。聖い教えに留まり続けるために。


 そんな助けはどこから来るのか。この世の知恵からか。富と名誉からか。いや、「天地を造られた主から来る」(2節)のである。それを知って、神を求めるなら、神は報いて下さる(ヘブル11:6)。神以上に他のものを求めるべきではない。富・繁栄も魅力的ではある。信者が増えることも素晴らしい。しかし、本当に必要な助けは、そこから来るのではない。神から来るのだ。


 だから、主は「神の国を第一に求めよ」と言われた。すなわち「神に支配されることを自らの最大の願いとせよ」ということだ。そう、天国こそ目標である。そんな正しい信仰者の歩みを主は守る。