預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇120(都上りの歌)

 都上りの歌である。祭司が神と人との仲介をしなければならない時代において、エルサレムで生贄を捧げ正式な礼拝を捧げることは必須なのだが、特にこの時、詩人は敵の偽り・欺きに囲まれていたがゆえ、余計に神を求めたのである。


 敵とは、詩人が平和を語ると闘いを望む、そんな平和を憎む者達・真の神を受け入れない人達(5~7節)だ。すなわち、神との平和を持とうとしない人々である。つまり、詩人が「平和を語る」というのは、神との和解のメッセージのことであり、すると彼らは拒む(神と敵対することを望む)、それが「彼らは闘いを望む」ということなのである。
 非常に残念なことである。救われて欲しいと思うからこそ、拒絶された時に余計に失望する。エリヤも同じように、イスラエルの民の不信仰を見て失望し死を願った。詩人も「ああ、哀れな私よ」(5節)と嘆く。そういう状態から救い出して下さい、というのが、この詩だ。


 そこで、そんな時の救いとはどんな救いなのか。何が慰めとなるのか。それは、神ご自身(神との交わり・礼拝)である。神の御言葉が喜び、恵みが慰め…と119篇で幾度となく語られている通りだ。だからエリヤも、神のかすかな細い声で力付けられた。


 それで詩人は、都に上って礼拝したいと願うのである。その意味は、真実な礼拝(神との交わり・真実な教え)の中に慰めがあるということであり、決して、聖地旅行を薦めるものではない。形だけの礼拝は、神との平和を築かない。偽りの教えに留まるのは、神に敵対すること。真実な御教えと礼拝が魂を癒すのである。


 ただ、悲しいことに、神との平和を拒むのは、何も未信者だけではない。信仰者の中にも、そういうことは起き得る。主イエスが言われたように、多くの人は広い道を行く(偽りの教えから離れない)ということだ。
 だからこそ私達も、流されないように、詩人のように祈りたいと思う。「主よ。私を偽りのくちびる、欺きの舌から救い出してください」(2節)と。


 主によって、真実な礼拝へと導かれて、神との平和を保ち続ける歩みをしよう。

詩篇119 その⑳(169~176節)

 詩人の心からの叫びである「御言葉の通りに悟りを得る」ことと、「御言葉の通りに救われる」という切なる願い、両者はほぼ同義と言える。そして、それは119篇の結論であり、聖書の目的である。この「目的」は決して見失ってはいけない。見失ったら、何の為の信仰か分からなくなる。溢れる感謝、賛美の源泉は救いの喜びなのだから。それゆえ主は言葉を変えて何度も語られた。全世界を手に入れても真の命を失えば何の得があるか、天に名が記されていることを喜べ、と。


 そこで詩人は、主の御手で支えられることを願い、その為に御言葉に従うことを選ぶ。そして、主の御教えを喜ぶ。救いを慕うがゆえだ。


 それなのに、だ。問題は「あなたの仰せを忘れません」と言いながら詩人は「滅びる羊のように迷い出た」という矛盾(176節)である。これは何か。


 思い出そう。詩篇は預言書である。それもキリストについての。そう、これは、迷える子羊を捜し求めるキリストの姿の暗示だ。その救い主を送るという聖書の約束(主の仰せ)を忘れない、と詩人は(迷い出たからこそ)言うのである。つまり、救いを慕うということだ。


 「御言葉を愛する詩篇」と言われる119篇、その締め括りが「御言葉の通りに…」(169~170節)と御言葉を基準・根拠としている。御言葉が約束していないこと(人間の勝手な願望)を信じ込んでも、それは信仰ではない。御言葉とは? 御言葉を愛するとは?


 御言葉=聖書であり、その中心はキリストである。そのキリストについての御言葉は全て必ず成就する。そしてキリストご自身が御言葉であられる(ヨハネ1:1)。


 だから結局、御言葉を愛するとは、キリスト(真理なるお方)を愛することであり、真理を愛する(守る)ことなのだ。ゆえに、御言葉を宣べ伝えるとは、キリストを…ということである。


 だから、そのキリストが何を教えたかを忘れてはいけない。主は、「疲れた人…は来なさい。休ませてあげる」と言われたのである。そしてまさに、119篇の締め括りに暗示されていた通りに、迷える子羊を捜し求めて、私達を真理と解放、命へと導いて下さった。それこそが聖書の中心(主の仰せ)であることを忘れないようにしよう。そして、救いの完成を慕い求めて、御教えを喜ぼう。

詩篇119 その⑲(153~168節)

 「偽りと惑わしで、永遠の命を見失わせようとする敵がいる。だから、神の定めの通りに信仰によって救って下さい」という154~156節は既出だが、大事なことなので繰り返されている。


 さて、敵は「君主ら」(新共同訳では「地位のある人々」)だ。宗教指導者達がイエスを迫害したのと同じ構図である。しかし、神を恐れることこそが道を外れない為の秘訣だと詩人は知っている(161節)。ゆえに御言葉を喜ぶ。それも「大きな獲物を見つけた者のように」(162節)。新約的に言えば、畑の中に埋まった宝を見つけて大喜びで…という所だろう。つまり、御言葉の真理こそ宝であり、それを発見し喜んでいるということである。それ程に詩人は偽りを憎み、真理を愛す(163節)。真理によってこそ救いに至るからだ。ゆえに、真理を守ることこそ御言葉を愛することであり、救いの道・義の道なのだ。その道は、一日中、生きている限り歩み続けなければいけない(164節)。


 その様に御教えを愛する者には豊かな平和があり、躓きは無い、と165節は言うが、これは現実の生活の話ではない。「この世には患難がある」と主が言われた通りだ。ゆえにこれは、心・魂においての平和、すなわち、救いの確信ゆえの平和である


 その救いの完成を待ち望むがゆえに詩人は、神の仰せを行っていると言う(166節)。ただし「私の魂は」と167節にある通り、実際には行いとしては不完全だけど、魂はそう願っているということだ。詩人は、そのことには自信をもって言う。私の道は全てみ前にある通りです(168節:新共同訳)と。つまり、生き様は全て神の前にさらけ出されているということだ。すなわち、主がご存じの通り、私の魂は御言葉に従いたいと願っています、ということである。


 ペテロが復活の主に言った言葉を思い起こす。彼は、実際の行動としては主を裏切ったけど、それでもペテロは言った。私があなたを愛していることはあなたがご存じです、と。


 私達も、戒めを完全に守っているとは決して言えない。しかし魂は、主に従いたいと願っている。その思い(生き様)は神のみ前にあり、主がご存じの通りなのである。だから、この道を歩み続けよう。

詩篇119 その⑱(145~152節)

 主イエスは、朝早くまだ暗い内に起きて祈ったと福音書に記されている。詩人も「夜明け前に起きて叫び求め」る。しかし、これは決して「早天祈祷会」のお勧めではない。詩人は、そうせざるを得ない状況にある(ゆえに必死に神に訴えている)のであって、それは62節にもあったように、夜も眠れない程の苦しみなのであり、熟睡出来ず、仕方なく朝早く目が覚めてしまっているのだと思われる。そんな時なら誰でも、のんきに眠ってなどいられないだろう。だから、その必然性があるなら朝早く起きて祈れば良い。しかし、必ずしも、そうすれば祝福されるというような、法則という訳ではない。


 そこで詩人の願いは「主の決めておられるように、私を生かして下さい」だ(149節)。しかし人は死ぬ。それが神の定めだ。もし一旦は死の危機から救われたとしても、その後も死の危機は来る。それは死ぬまでずっと来る。だから「私を生かして」は無理な注文だということになる。だが、詩人が言うのは「主の決めておられるように」だ。つまり「信仰による永遠の命を生かして下さい」ということを願っているのである。何故なら、それを奪おうとする敵がいるからだ(150節)。彼らは偽りの教えで多くの人を惑わす。詩人も一時は惑わされていた時があった。が、神に懲らしめられて、戻ることが出来幸いだった。151節にある通り、神は遠く離れてはおられない(参照・申命記30:14、使徒17:27)。真理は、探し求めるなら見出すことも出来るのである。


 詩人は、その(神がとこしえから定めておられる)真理「信仰による救い」を昔から知っていた(152節)。なのに惑わされたことがあるのだ。だからこそ「主の決めておられるように、私を生かして下さい」すなわち「敵の惑わしに負けないように偽りから守って下さい」と心を尽くして願うのである。これが詩人の(朝早く目が覚めてしまう程に切羽詰まった)必死の叫びである。


 詩人の苦しみは他人事ではない。今も偽りの教え、惑わし、広い道、敵の攻撃…は、そこら中にある。私達の周りを取り巻いている。だから私達も、詩人と同じように祈って、真理なるキリストに留まらせて頂いて、神の定めの通りに、永遠の命への道を歩み続けよう。

詩篇119 その⑰(137~144節)

 「涙が川のように流れます」(136節)とあるが、そんなに出るわけがない。当然ながら「川のように」は詩的な表現であって事実ではない。いくら聖書とは言え、何でもかんでも「文字通り」に信じるのではなく「聖書は何を言わんとしているか」を読み取るべきなのである。


 とにかく詩人は、御言葉を非常に愛している。その熱心さが「私を滅ぼし尽くしてしまいました」(139節)とはどういうことか。信仰に熱心過ぎて家庭崩壊を招いたのだろうか。いや、原因は、御言葉を愛したからではない。逆に、敵(同胞)が神の言葉を忘れている(ゆえに、偽りや惑わしを吹聴する)からである。これは136節と同じパターンだ。何しろ、本来なら神の家族である同胞が詩人に敵対し、惑わし、滅びの道へと誘うのだから悲しくて魂が打ちひしがれるのも無理はない。それもこれも、詩人が熱心に御言葉の真理を愛するがゆえである。何故なら、霊的な真理は、この世の主であるサタンにとっては邪魔で仕方がないからだ。だから主イエスも弟子達も迫害された。そして今でも、真理を愛する人は、敵の標的とされるのだ。


 ではやはり、御言葉を愛する熱心さのゆえに滅びるということか。いや逆だ。御言葉を愛さないということこそが滅びを招くのである。140節は新共同訳では、御言葉は「火で練り清められたもの」だ。すなわち、純粋(混じり気がない、真実)で、それゆえに、その裁きは絶対で正しい。背く者は滅びるのだ。しかし、従う者には(たとえ地上では迫害があっても)正しい裁きによって救われる。それが喜び・楽しみだと詩人は言う(141~143節)。だから、御言葉の正しさを悟らせ理解させて欲しい(それによって命を得させて欲しい)と詩人は願うのである(144節)。神の言葉の正しさ、それが命なのだ。


 最大の危機(滅び・地獄)を避けるために必要なこと、それは、真実な主の御教えを愛することである。真理を愛するがゆえに敵の標的とされるかもしれなくとも、である。決して、迫害を恐れるな(堂々と殉教せよ)ということではない。ただ、霊的真理を守ることが命を守ることなのである。それを見失ってはいけない。そのために私達も詩人と同じく「悟りを与えて、生かして下さい」と祈ろう。