預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇119 その⑮(121~128節)

 「今こそ主が事をなさる時です」(126節)と詩人は言う。「事」とは? 裁きだろうか。いや「裁いて下さい」とは言っていない。むしろ「それゆえ…あなたの仰せを愛します」(127節)という方向に詩は展開する。しかし同時に詩人は、自らが「死にそうだ」と訴えてもいる(123節)。だからこそ「主よ、今です!」と言うのである。果たして、今こそ主が、何を、なさるべき時なのか。


 詩人の訴え、その原因は126節後半「彼らはあなたの教えを破りました」である。「それゆえ私は…あなたの仰せを愛します」(127節)と続くのである。やはり問題は、偽りの教えだ。それが詩人を虐げ、迷わせようとする。だから彼らに「私を委ねないで下さい」(121節)と言うのである。


 他にも「~して下さい」という要求は幾つもある。しかし、詩人が「今こそ」必要としていることは何か。偽りの教えによって迷わされ、苦しめられている、そんな時に「今こそ」必要なこと、それは純粋な御言葉(真実な教え)を悟ることなのである。ゆえに詩人は請う。「私に悟りを与えて下さい」(125節)と。それが「今こそ主がなさるべきこと」だ。そして「今」とは、私達が生きている現代、今もであり、特に、背教・異端・カルトが蔓延る今こそ悟りが必要なのである。


 「それゆえ私は…純金よりも、あなたの仰せを愛します」(127節) これはクリスチャンなら誰もが言う。しかし、にもかかわらず、偽りの教えが蔓延り、多くの人が惑わされているのが現状だ。だから「それゆえ…私は偽りの道をことごとく憎みます」(128節)ということの重要さを悟ることが必要なのである。つまり、偽りの教えに気付くだけでは足りないのであって、気づいたなら、その教えから離れなければならないのだ。すなわち、その教えに基づく考え方をやめる、ということである。そうでないと離れたことにならない。その考え方が残っていると、縛られたまま苦しむ。例えば「祈れば何でも叶うはずなのに、どうしてですか主よ!」…と。


 主は言われた。「来なさい。休ませてあげよう」と。この、主の仰せを愛そう。「金よりも、純金よりも」(127節)

詩篇119 その⑭(113~120節)

 詩人は神を恐れ、神の掟から迷い出る者への裁きを恐れるがゆえ、自らがそうならないように「支え、生かして下さい」と願う。何故なら、詩人を悪に染めようとする敵(二心の者共)がいるからだ。


 ヤコブは「二心の人達。心を清くしなさい」と言う。心の中に神への信頼と疑いがある(混じり気がある)から、疑いを取り除いて信頼だけ(一つ心)になれということであるが、それは可能なのか。


 そもそも、祈るということは、何らかの心配事・不安があるからではないだろうか。もし神に完全に信頼しているなら、何の心配も無いはずだから祈る必要も無くなるのではないか。しかし聖書は、祈るべきことを教える。するとやはり、完全に心を清くする(神への信頼だけになる)というのは不可能ということではないだろうか。


 勿論、教えにおいては完全に聖くあることが求められる。「聖くなければ、誰も神を見ることは出来ない」(ヘブル12:14)のだ。しかし心はどうか。肉の体と罪の性質を残したまま患難の多い地上で生きる限り、悩み不安は尽きないのではないか。つまり、クリスチャンは誰でも多少なりとも「二心」なのかもしれないのである。


 では詩人が憎む「二心」とは何か。それは「主を神とするか、他のものを神とするか」という迷いだ。エリヤはイスラエルに対して言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。主が神か、バアルが神か」(Ⅰ列王記18:21)と。神の民でありながら他のものを神とする心が混じっている、それが憎まれるべき二心だ。


 そんな者達が自分を迷わせようとしていると詩人は言うのである。現代的には、イエスに仕える者でありながら富にも仕えている(信仰を利得の手段としている)人達であり、多くのクリスチャンを惑わしている。神はそれを憎む。偽りの教えこそが一番の敵なのだ。しかし詩人は、神の御教えを愛すと宣言する。主が隠れ場であり盾だと。


 神を信頼していても、時に不安な気持ちになることもあるかもしれないが、それは仕方がない。完全な人間にはなれないのだから。しかし、神は主イエスだけだ。他に比べるものは無い。どっちつかずではなく、偽りから離れて、ひたすら主の御言葉を愛し主に仕えよう。

詩篇119 その⑬(105~112節)

 「足の灯、道の光」なる御言葉に従って来たと詩人は言う。ならば大丈夫のはずだが、何故か「ひどく悩んでいる」。御言葉の通りになってない(足元が照らされていない)のだ。


 それゆえ彼は願う。「あなたの裁きを私に教えて下さい」(108節)と。つまり「御言葉を足の灯として従う」人であるにもかかわらず、御言葉を理解していないということだ。それは例えば、数学者が掛算を知らないとか、体操選手が逆立ち出来ないのと同じだ。その人は悩むだろう。致命的に。だから、詩人にとっては、生きる道を見失ってるに等しい。


 神に従いたいけど御心が分からない…クリスチャンにもよくある悩みだ。そんな時に間違った教えに出会ってしまったら命が危ない。詩人も、命がけでいることを覚悟している(109節)。それは直訳では「私の命は、いつも私の手の内にあります」であって、自分の魂をいつでも神に委ねる準備は出来ている、という意味であろう。言い換えれば、御言葉が足の灯、道の光となるために命をかけるということだ。あるいは、天国への道(教え)を守るためなら死んでもいいということでもある。それは決して、極端ではない。もし天国への道を見失ったまま死んでしまったら大変なことになるからだ。主も言われた。五体満足で地獄より、片手片足を失っても天国の方がいいと。実に、永遠の命がかかった(命がけの)シリアスな、重い問題なのである。


 しかし、どんなに重い問題であろうとも、詩人は言う。「あなたの御教えを忘れません」(109節)と。彼は答えを知っている。天国への道(その教え)を忘れてはいけないということだ。


 地上の人生は「荒野の誘惑」のようである。しかし詩人は、神の戒めに留まり、永遠のゆずりの地(天国)を受け継ぐと言う(110~111節)。その為に、真理を悟り従うことに心を傾けると(112節)。


 そういうわけで詩人は、神に従う道を歩みたいと願いながら、神の御心が分からないと悩む…からこそ、御言葉を悟ることに心を傾けるというのである。命をかけて。


 私達も、魂を主に委ねながら、天国への道を守り続ける歩みをするために、御教えを悟ることに心を傾けよう。

詩篇119 その⑫(97~104節)

 どんなにか、分からないほど御教えを愛している(97節)と詩人は言う。自信満々で自惚れが強いと感じるかもしれないが、これは「愛」とは何か、という問題だ。それは「好き」ではない。神を愛するとは、神の命令を守ることだとヨハネは言う。


 では神の命令は何か。それは「心を尽くして…神を愛せよ」が一番大切な命令だと主は言われた。さあ、神を愛しましょう。どうやって? それは神の命令を守ることだ。ゆえに結局、御教えを愛するとは、教えに従うということなのである。


 つまり詩人は「私は一生懸命御言葉に従いたいと思っています」と言っている、それが97節なのだ。そして、それが「一日中、私の思いとなっています」と。だから、98~100節も自信過剰と思えるが、真意は、神の教えを知らない限りは、どんな知恵者も実は愚かだということなのである。分かりやすい例が、進化論だ。知識も知恵もある学者がそれを主張する。それに比べればクリスチャンは学は無くとも、悟りとわきまえがある(神が人を造ったと知ってる)ということだ。


 で、詩人は悪の道に進むことを引き止めた。神に懲らしめられ学んだからだ。それは苦しかったが幸いだった(71節)、ということである。


 続いて、御言葉は蜜より甘い(103節)と言う。が、御言葉は食べるものではなく、口にする(話す)ものだ。そして「心にあることを口が話す」のである。つまり、御言葉を心に満たし味わうなら、あたかも乳と蜜の流れる地に入ったかのような喜び、平安、感謝が満ちる、ということの表現だ。それが厳しい御言葉であっても、である。それによって、本当の約束の地・天国に入ることが出来るようになる。


 だから、天国に入る為には純粋な御言葉を守るべきなのである。その為に、偽りの道をことごとく憎む(104節)と詩人は言う。曖昧にしてはいけない、一つも取り入れてはいけない、それが、偽りの教えだ。


 詩人は、それを一日中、自分の思いとしている。それこそが、どんな知恵者にも優る(自惚れではなく)悟り、賢さ、英知なのであり、その悟りが敵に勝つ力なのだ。


 約束の地に入る、それが勝利である。その為に、純粋な御言葉に従うことを求め、偽りから離れて、約束の地に入る者となろう。

詩篇119 その⑪(89~96節)

 天地創造が完成したのちは、全てのものが神の定めに従って自ら動いている。人も、遺伝子に書き込まれた情報に従って生まれるようになった。それを89~90節は支持する。この教えを喜びとするなら、悩みは消え、生きる力となる(92~93節)。


 しかし、その「主の御言葉によって生きる人」を滅ぼそうとする敵がいる。偽りの教えによってだ。何故なら、主の御言葉が生きる力であるのだから、それを崩せばいいというわけである。その為に敵は待ち伏せている(95節)。すなわち、偽りは準備万端満ち溢れているのだ。


 だから羊は、本当の羊飼いの声を聞き分けなければならない。主はそう言われた。詩人も「私はあなたのさとしを聞き取ります」と言う。
 この119篇は、御言葉を愛する詩であり、詩篇の中で最長であるが、その長さの理由が分かる。主の教えを聞き取ることがいかに大切であるか、ということだ。偽りの教えを愛してはいけないということを、それが大事だからゆえ、何度も訴え、教えているのである。


 腑に落ちないのは96節「すべての全きものにも、終わりのあることを見ました」だ。完全なものにも終わりがあるとはどういうことか。不完全なものは廃れるとⅠコリント13章にあるが、それは、完全なものが現れたなら、だ。ということは、完全なものはいつまでも続くのではないだろうか。おかしいはずだ。新共同訳では「何事にも終わりと果てがある」と訳されている。そう、偽りの教えにも(今は栄えていても)いずれ、やがて刈られて燃やされる時が来るのだ。しかし、真実な神の教えは終わらない。草が枯れ、花が散ろうともだ。御言葉の約束は必ず実現する。ただし、その御言葉の理解が間違っていたなら(例えば、求めなさい、そうすれば<聖霊が>与えられる…を、何でも与えられる、と…)、それはどんなに信じ込んでも、祈っても、虚しく終わる。


 だから、聞き分けることが大切なのである。救いの完成のために。勿論、キリストを信じて救いは約束されている。だが「キリストの言葉に留まるなら」という条件を満たさない限り、約束は果たされないのである。私達は、詩人の言う通り(95~96節)に、終わることのない完全な主の御言葉を悟れるように、聖霊に求め続けよう。