預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

詩篇119 その⑪(89~96節)

 天地創造が完成したのちは、全てのものが神の定めに従って自ら動いている。人も、遺伝子に書き込まれた情報に従って生まれるようになった。それを89~90節は支持する。この教えを喜びとするなら、悩みは消え、生きる力となる(92~93節)。


 しかし、その「主の御言葉によって生きる人」を滅ぼそうとする敵がいる。偽りの教えによってだ。何故なら、主の御言葉が生きる力であるのだから、それを崩せばいいというわけである。その為に敵は待ち伏せている(95節)。すなわち、偽りは準備万端満ち溢れているのだ。


 だから羊は、本当の羊飼いの声を聞き分けなければならない。主はそう言われた。詩人も「私はあなたのさとしを聞き取ります」と言う。
 この119篇は、御言葉を愛する詩であり、詩篇の中で最長であるが、その長さの理由が分かる。主の教えを聞き取ることがいかに大切であるか、ということだ。偽りの教えを愛してはいけないということを、それが大事だからゆえ、何度も訴え、教えているのである。


 腑に落ちないのは96節「すべての全きものにも、終わりのあることを見ました」だ。完全なものにも終わりがあるとはどういうことか。不完全なものは廃れるとⅠコリント13章にあるが、それは、完全なものが現れたなら、だ。ということは、完全なものはいつまでも続くのではないだろうか。おかしいはずだ。新共同訳では「何事にも終わりと果てがある」と訳されている。そう、偽りの教えにも(今は栄えていても)いずれ、やがて刈られて燃やされる時が来るのだ。しかし、真実な神の教えは終わらない。草が枯れ、花が散ろうともだ。御言葉の約束は必ず実現する。ただし、その御言葉の理解が間違っていたなら(例えば、求めなさい、そうすれば<聖霊が>与えられる…を、何でも与えられる、と…)、それはどんなに信じ込んでも、祈っても、虚しく終わる。


 だから、聞き分けることが大切なのである。救いの完成のために。勿論、キリストを信じて救いは約束されている。だが「キリストの言葉に留まるなら」という条件を満たさない限り、約束は果たされないのである。私達は、詩人の言う通り(95~96節)に、終わることのない完全な主の御言葉を悟れるように、聖霊に求め続けよう。

詩篇119 その⑩(81~88節)

 詩人は「絶え入るばかり」だ(新共同訳では「衰えた」)と言う。それも「救いを慕って」である。つまり、死にそうな状態でまだ救いが来ていないということだ。82節でも、御言葉の慰めはいつになったら来るのか、と訴える。詩人は余命幾ばくも無い老人なのだろうか。あるいは、例えばパウロについての預言的な個所と取れなくもない。彼は、早く天国に行きたいと願っていた。「主よまだですか?」と、主の慰めを待ち望みながら迫害に耐えていた。いずれか定かではないが、いずれにしても「地上での苦しみの中で、神の慰めを待ち望む心」を表している。そして、それは殆どの人の心でもあるのではないだろうか。特に今の時代、狂った世の中への絶望さえ感じるほどだ。


 だから、そんな状況にどう対処すればいいのかを学びたい。鍵となるのは83節の「煙の中の皮袋のよう」という表現だ。新共同訳では「煙にすすけた皮袋のようになっても」である。


 まず「皮袋」は葡萄酒や水などの入れ物として、生活の中で毎日のように使われるものだ。それが煙にすすけてるということは、使われず吊るされたままになってることを意味する。それは人間にとってどのような状態なのだろう。何も出来ることは無く横たわっているだけ(死ぬ直前)ということだろう。ただし「たとえ、そうなっても」であるから、詩人はまだ死にかけてはいない。けど安心ではない。いつそうなるか(命の日数がどれだけあるのか)は分からない(84節)。だから、常に備えておくしかない。すなわち、その時がいつ来ても大丈夫なように「その時までずっと神の掟を忘れない」と言うのが83節だ。


 覚えておくべき神の掟とは? 「安息日を守れ」か、「偽るな」か。いや「キリストに信頼する者は失望しない(救われる)」という神の定めこそ、死の時に覚えておくべき掟だ。他の掟など問題ではない。何はどうあれ、神への「信仰によって義と認められる」のであるから。


 所が、それを曲げようとする敵がいる、と詩人は言う(86節)。偽りの教え(律法主義、ご利益信仰など)によってだ。だから聖書は教える。「上にあるものを思いなさい」と。そこにこそ希望と解決、命があるからだ。この神の掟を忘れずに日々を歩もう。それが備えである。

詩篇119 その⑨(76~80節)

 詩人は、一時は信仰が「的外れに」なってしまっていた。それが「罪」である。つまり、「罪を犯すな」と言うのは「的を外すな」ということなのであって「嘘とか盗みとかの細々とした悪事を避けて聖い人になれ」ということではないのだ。それらは的外れの結果起きることに過ぎない。本質ではないのである。


 アダムとエバの行なった罪とは、まさにその「的外れ」なのであって、神の戒めを誤解することとサタンの偽りによって、曲がってしまったのである。その結果人間は、殺人から始まって、様々な悪事を行うようになってしまった。だから、御言葉を誤解・曲げること(それが罪)をこそ避けるべきなのだ。


 詩人を惑わした者(悪い働き人)に対し、恥を見ますようにと詩人は言う。憎しみか。いや、恥を見て(苦しんで)悔い改めることを求めているのである。それが幸いだということを詩人は経験しているからだ。とは言え、悪者が必ず悔い改めるとは限らない。だから主は言われた。犬に聖なる物を与えてはいけない。豚に真珠を投げるな、と。


 仮に悪者が悔い改めたとして、自分を破滅に追い込もうとしたその悪者の救いを素直に喜べるかどうかは微妙かもしれない。複雑な心境になったとしても不思議ではない。だから詩人は願う。「あなたの恵みが私の慰めとなりますように」と(76節)。神の恵みによって慰められたいということだが、癒しや奇跡、繁栄を受ければ慰められるということだろうか。いや、的を外してはいけない。神の教えこそが幾千の金銀に優る恵み(72節:新共同訳)だということである。


 もし、神の教えを慰めとしないなら、教会とは何なのか。面白い話を聞きに来る所? ならむしろ寄席に行けばよい。交流の場? それならサークルや老人会と変わらない。


 大切なことは一つ、神の言葉が教会の要であり、恵みだということである。ゆえに詩人は言う。「あなたの御教えが私の喜びだからです」(77節)。だから、御言葉による憐れみと慰めを与え、私を生かして下さい、と願うのだ。
 私達も、御言葉が恵み・慰め、という心になれるよう主に求めよう。

詩篇119 その⑧(73~75節)

 人は神に造られた。これはクリスチャンの信仰の大前提だと言える。加えて、「神は一人一人を個性的な最高の作品として丁寧に造って下さった」とも言われるが、果たしてそうか。もしそうなら、ある人は背が高く美しく造られるが何故、別の人はそうではないのか。不公平感は否めない。


 勿論、最初の人は、神が直々に造った。それがアダムとエバだが、彼らは、生まれた時点で完成した成人だった。何しろ神の作品だから不完全な状態で生まれるはずがない。しかし創造の業が完成して、神はその手を止めた。それ以降、森羅万象は神の定めたシステム・プログラム通りに動き始めた。それには当然、人間も含まれている。つまり、人間は男と女を通して、赤ん坊として生まれるようになったということだ。そこに神がいちいち手を出す必要は無い。親の遺伝子情報に従って子供は生まれる、それが神のプログラム(そうなるように神が造ったの)だ。だから、いずれにしても、人は神に造られた、ということなのであって、猿の子孫ではないのである。


 その人間が、もう一度神によって造り直されることを言うのが73節だ。すなわち、神の子として新たに生まれること(再創造)である。それはエペソ2:10にも言われている通り、キリストにあって(聖霊の導きで)一人一人が他の人とは違う不思議な方法で信仰へと導かれた、まさに神の「作品」なのである。


 更に、神の子として再創造されてからも尚、神は一人一人を造り変える。もし道を間違えたなら、懲らしめて悔い改めさせることによって、信仰者を確立させるのだ。詩人は、それを体験した(71節)。幸いなのは、その「神の懲らしめ」だ。そのおかげで神に従う心へと造り変えられたのだから。それは真実で正しい(75節)ゆえに、更なる悟りと御言葉を詩人は求めているのである(73節)。そして、その様に、次の悟りへとステップアップして行く人がいるのを喜ぶのが、本物の神のしもべだと言うのである(74節)。そう、私達も「真実を求める人達がいる」ということを喜ぼう。そして、いよいよ悟りを求め、神の(愛ゆえの)懲らしめを喜ぶ者となろう。

詩篇119 その⑦(65~72節)

 詩人は「神の戒めを学んで守ること、それが幸いだ」と言う。そればかりか、苦しみに会ったことも幸いだ、と
 しかし、だからと言って「そうだ、苦しみも幸いだ」「苦しみも神の賜物だ」「苦しみを受け入れ、感謝し、喜ぼう」と言うのが正しいのだろうか。自分が、そう思うのはいいが、それを他人に押し付けるのはいかがなものか。「信仰による人間疎外」を生みかねない。


 詩人が「苦しみに会ったことは幸いでした」と言う理由は、神の掟を学んだからだ。そのような結果に至ってこそ、苦しんだことが益となるというものである。例えば、病気をきっかけにキリストを信じた、とか。
 しかし、ここで詩人が言う「苦しみ」は、病などのことではない。と言うのは、彼は、苦しみに会う前は的外れをしていた(67節)。それで苦しみに会ったということは、その苦しみとは「神に懲らしめられた」ことを指しているのである。何故なら、その「苦しみ」の結果、神に従うようになったのだからだ。それを幸いだと言っているのである。主が教え、戒め、責め、悔い改めに導いて下さること、それが、ここで言う「主の良くして下さること」「主の慈しみ」「幸い」なのである。


 それゆえ詩人は、御言葉を愛し、求める。そうする必要がある。偽りが蔓延っているからだ。69節から察するに、詩人も一度は偽りに染まってしまったようだが、彼は、心を尽くして純粋な御言葉を守ろうと決心した。一方、偽りから離れない人々の心は「脂肪のように鈍感」(70節)と表現されている。多くの人は広い道を行くのだ。


 主に戒められ苦しんだからこそ詩人は、純粋な御教えを喜び、守る心へと変わることが出来た。だから「苦しみに会ったことは幸い」だと言えるのである。 決して、人生の苦しみ全てが幸いだと言うのではない。病、問題、悩みの時に、「幸いだと思わなきゃ」と自らを追い込む必要は無い。キリストを信じた者にとって幸いなのは「神の懲らしめ」なのである。何故なら、神は愛する子を懲らしめるからだ(ヘブル12章)。正しい道に歩ませるため、天国を得させるために。


 神の教えは幾千の金銀にも優る(72節)。その様な思いへと心が変えられるようにと、主に求めよう。