預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

福島原発事故被害救済九州訴訟

 提訴から5年。いよいよ結審を迎える。来たる12月23日だ。提訴の時は確か12月24日だったが、今度もまたクリスマスの年末の忙しい時期だ。
 原告団長として最終弁論に臨むのだが、私は「損害論」について弁論する。通常、弁論というものは、あらかじめ作った文章を準備書面として提出して、それを皆が手元に持ってる状態で証人台に立って読み上げるだけなのだが、今度は違う。弁護団との会議で「牧師としていつもしてる説教のような弁論を」ということになったのだ。作文を読み上げるのではなく、自分の言葉で、魂に語りかけるように、心を揺さぶる弁論を、ということだ。
 とは言え、準備書面として提出しないわけにはいかないので、その作文をしているところだが、まあ、こんな弁論は、裁判所ではおそらく普通は聞くことはできないタイプのものだろう。「生きるとは何か」「人生とは何か」…それを奪われたらどうなるか、その「損害」を語る。
 けど、言うは易し、する博多氏。するは難し。会議にかけてダメ出し食らわないように全力を尽くそう。
 ああ、忙しい。仕事する暇がない。のんびり仕事がしたいなあ。

のんびりしたい

なんだかんだと忙しくて、のんびり仕事する暇がないんですう。
( ̄^ ̄)

キリストはどこにいるのか(雅歌1:5~8)

 「あなたがこれを知らないのなら山羊を飼え」(8節)という不思議。
 「あなた」(女の中で最も美しい人=神の目に高価で尊いとされた信仰者)は何を知らないのか。それは「羊飼い(キリスト)の居所」である(7節)。主の牧場はどこなのか、どこで命の水を飲ませて頂けるのかを見失っているのである。同時に、自らを「黒いけど美しい」と言いながら、その黒さを恥じ(罪意識に苛まれ)ている。そうなってしまう理由は、兄弟(原意は、同盟・同職など仲間を指す)が日焼けを無理強いする(罪意識を増幅させる)からだ(6節)。つまり、同じ神の子である兄弟から、不完全さを責められ、完全になる事を強いられて、自己嫌悪に陥るのである。これがキリスト教会における深刻な問題である事を私達は知っている。神の目には「黒いけど美しい」のに、その黒さにだけ注目させて「美しさ」を塗り潰してしまうのだ。そして、キリストによる平安を見失わせる。「あなたの仲間の群れの傍ら」に居ながら遊女のように(顔覆いをして)虚しく佇むしかない、その絶望。「あなた(キリスト)の仲間」とは誰か。キリストの同労者・牧師だ。が、悪い羊飼いなのだ。雅歌は、それを預言的に語っていたという事だ。何故、クリスチャンが教会で重荷を負わされて苦しむのか……あなたがこれを知らないなら、と言うのが8節なのである。
 そこで「羊の群れの足跡について行け」と言う。それが解決への道だ。何故なら、主の羊は主の声を知っているからだ(ヨハネ10:4)。ついて行けば、辿り着く。真の羊飼いなる主の元に。
 そして問題の「子山羊を飼え」だ。色々な解釈があるが、正解は不明とされている。しかし、誰にも分からないようなものを神は何故聖書にしたのか? 誰にも分からないで済ませていいのだろうか? 聖書が書かれた目的は何か。キリストを信じて命を得る為だ(ヨハネ20:31)。ならば当然、雅歌もそのライン上(福音を伝える為)にあるに決まっている。少なくとも、ハッキリしているのは、キリストの元に留まれという事だ。「子山羊を飼う」が何であれ、キリストの傍らで生きて行けという事である。雅歌を福音として理解するなら、こうなる。そして、その福音が力であり、信じる者に命を得させるのだ。

詩篇81(モーセは神を信じなかった)

 イスラエルの祭り(1~3節)は、神が定めた(4節)。それは出エジプト(神の救いの御業)の証しの為であり、それを忘れないようにする(記念の)為なのだが、詩人は「知らなかった」と言う(5節)。新共同訳では「思いがけない言葉を聞いた」となっている。その言葉とは、6~10節の「出エジプトについての主の言葉」である。つまり、勿論「出エジプト」は知ってる(記念の祭りを守って来た)けど、まだ知らない事があった。真実を悟ってなかったという事だ。
 問題は7節の主の言葉「メリバの水のほとりで、あなたを試した」である。出エジプト17:7では「民が主を試した」事件だとされているのに、主は「逆だ」と詩篇81で言うのである。だから詩人は「知らなかった」と驚いているのだ。
 同じ事件を記している民数記20:12では「モーセは神を信じなかった」と神御自身が言う。それゆえモーセも民も、約束の地に入る事が出来なくなった。モーセは無神論者だったのか。いやそんなはずはない。彼は「岩から水を出す」という神の言葉を信じなかったのだ。岩を2度打ったのが神の機嫌を損ねたとか、ではない。詩篇106:32~33では、原因は「モーセの軽率な言葉」とされている。どこにそんな言葉があったか。民数記20:10だ。意訳すれば「岩から水なんか出せるか!」である。それを指摘して「モーセは私を信じなかった」と神は言うのである。神を聖なる者としなかったという事だ。そう、約束の地に入る為には、神を聖なる者とする信仰が必要なのである。民がその信仰を持っているかどうかを神が試した、それがメリバでの事件なのだ。試された結果、民は約束の地に入れなくなった。信仰が無かったのである。それが「出エジプト」の真実であり、それを聞いた詩人は驚いたのである。神を聖とする信仰が無いなら、イスラエルの特権(選びとか、祭り…)など無意味だ。やれ水だ、肉だ、と神に求めるばかりで、「神を」求めていないなら神に喜ばれる事は出来ない(ヘブル11:6)。その信仰を試される場所、それが荒野(約束の地に入るまでの私達の地上での旅路)だ。一旦救われたらあとはもう大丈夫…ではない。約束の地に入るまで、神への純粋な信仰を保ち続けよう。

詩篇80(例によって、アレだ)

 例によって、イスラエルは苦難の中にあり、詩人は「主よ、いつまで助けてくれないのですか」と訴える。そして14節から「主よ、どうか赦して」と求めるのだが、ポイントは17節「神の右の手の人」とは誰かだ。新共同訳では「神の右に立つ人」だが、その人は「神の為に強くされた人」でもある。その人に神の御手、すなわち「力・救い・助け・支え・祝福」を置いて下さいと言うのだ。
 基本、直接的にはこの詩は、イスラエルを助けて、と訴える詩である。しかし、イスラエルは「神の右に立つ」どころか、神に背を向けて(偶像礼拝の故に)苦難の中にいるのだ。「神の為に強くされた」どころか、不信仰の故に倒れたのである。これも例によってだが、イスラエルの事を言っているようで実は別の事を言っている、それが預言書としての詩篇だ。
 神の右に立つのは、キリストである(マタイ22:42~44)。そして、神の為に強くされ、十字架にまでかかられた救い主に、更に御手(力・救い)を、という事は、復活(救いの道の完成)を示唆する。そうして「私達が生き、元に返れる」ようにと願うのが18~19節だ。それは直接的には、イスラエルが捕らわれから解放される事を求めていても、預言的には、人間が救われて、元の(神と生きる)者となる事である。
 最後の裁きの時、全ての人が、神の右(救い)か左(滅び)に分けられる。右は羊、左は山羊だ(マタイ25:31~34)。キリストの血という代価で買い取られた神の羊、その人は神の元に返る。それも「神の右にいる人」なのである。
 キリストが神の御手によってよみがえらされたのは、そのキリストを信じる者が神の元に返るのを神が喜ぶ為である。だから「もしあなた方が、キリストと共によみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが神の右に座を占めておられる」(コロサイ3:1)と聖書は言う。そして「主の右には楽しみがとこしえにある」(詩篇16:1)と聖書は約束している。その約束は本当だと信じよう。自分の願望ではなく神の約束を信じる、それが聖書の教える「信仰」なのだから。私達は、天にある「とこしえの楽しみ」を思って歩もう。