預言書としての詩篇(から始まって、今や、様々)

愛される詩篇。その麗しさだけでなく、嘆き、呻きも共感を呼ぶが、預言書としての深い真実があることを解きほぐす。そのほか、つれづれに。

まず、コートを脱ごうか。

昨夜の集会のメッセージで語ったことから少し。




創世記11章までの大きなテーマの一つは
「人間は決して神にはなれない」
ということだ。


例えば、アダムとエバは何を間違えたか。
あなた方は神のようになれる
という蛇(サタン)の惑わしを真に受けたことだ。


バベルの塔の建設も、神の頂にまで上ろうと考えたからであり、神はそれを阻んだ。



牧師は当然、それを説くし、それらの聖書の教えをクリスチャンは、「アーメン」と信じる。そう、人は神にはなれない



なのに、同時に「あなた方は、天の父が完全なように、完全でありなさい」(マタイ5:48)という教えを、そのまま受け入れる。


「聖書にそう書いてある!」「主がそう言われたのである!」


と牧師は、その文脈の中にある主の言葉、例えば「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」を、そのまま実行するようにと教える。「右を打たれたたら左も…」も、同じように。


それが出来たら、まさに「完璧」だ。
神と同じように、完全だ。




何が言いたいか。
つまり、創世記等の「人は神にはなれない」という教えに対して「アーメン」と受け入れながら、同時に「神のようになれ」という真逆の教えに対しても「アーメン」と受け入れているのは矛盾だということである。


そして、その「矛盾」さえも、そのまま「アーメン」と受け入れる。
正反対の教えに対して「神のお考えは人間にはわかりませんけど、従いましょう」と自らを(信徒を)言い含めるのだ。



しかし、それはもはや「思考停止」だ。
風が吹く方にその都度向きを変える「風見鶏」だ。




ついでに言えば、(ここからは昨夜の説教ではない
ある高名な人物が展開しているミニストリーがある。
多くの教会が賛同し、支持している。


その人物が語るに


コロナウイルスでさえ、神のお許しが無ければこの世に現れることは無い


のだそうだ。
それを聞いた人の感想は
ハッとさせられた
という、いわゆる「目からうろこ」的な賞賛の言葉だ。




同時に、一方では、世界的な運動として、
7:14の祈り」というものが広められている。
その時刻に同時に世界中で祈って、神の御名によってコロナウイルスを追い出そう」というのである。


これも致命的な矛盾である


どちらも多くの教会が支持している。
それが全く相反する教えであるにもかかわらずだ。


つまり、もしコロナウイルスが神の許しの下に現れたのなら、神が「良し」としているわけだから、人間は受け入れるしかないはずだ
それについては「
ハッとさせられ」ながら、
なのに、同時に「神の御名によってコロナを追い出そう」にも賛同する




毛皮のコートを着ながらクーラーを最強にするようなものである。


私は言いたい。


「コートを脱げ!」

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